今日のみ言葉【No.1872】(2018年11月 2日)「 イエスの郷里の人々(1)」

この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。
(マルコ6:2)

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「能ある鷹は爪を隠す」ということわざ通り、圧倒的実力を持っている人は自分の力を見せびらかしません。

これと反対のことわざは、「弱い犬ほどよく吠える」でしょう。

中高年になっても人に尊敬(リスペクト)を求めるとすれば、それは大人として未熟なままだということです。

人を正しく評価するには、その人が今までやってきたこと(行為)を客観的に見て判断することが必要です。

イエス様の郷里ナザレの人たちは、先入観に基づいて判断していました。

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郷里ナザレの人々は

「このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか」
(マルコ6:2)

と不思議がっていました。

イエス様が公生涯に入ってからなされた数々の奇跡を伝え聞いていたのです。

ところで、田舎では人々は各々の血縁関係を知り尽くしています。

「マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」
(マルコ6:3)

ですから、どうしても「我々と変わらない普通の人間ではないか」という思い込みが消えず、客観的判断の邪魔をします。

また、人は自分が信じたいことを信じるものです。

交通事故と飛行機事故で、どちらが死亡する確率が高いかというと、圧倒的に車の事故です。

しかし飛行機に乗るのを怖がり、車に乗っていると安心する人がいます。

結論が先にあり、その結論に合うような事実を集めるのが人の性質なのです。

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イエス・キリストは100%神であると同時に100%人間です。

聖書はそれをこう語っています。

「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた」
(ピリピ2:6-7)

人間の姿に隠された神の子の神性を見抜くためには、自分の持っている思い込み・先入観というものを一旦脇に置き、保留状態にし、心を中立のニュートラル状態にしなければなりません。

そして、

「自分の知識や人生経験など浅いものだ。それに頼らず、虚心坦懐にイエスという人物の言葉と行いを調べてみよう」

とすることが、イエスにつまずくことなく、正しいイエス・キリストの理解へと到達するやり方です。

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まず、聖書の言葉を聞くこと。

そこから始める一日として参りましょう。

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