今日のみ言葉【No.1282】(2016年 5月11日)
わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。
(マラキ3:10)
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マラキ書第3章10節は、よく献金のすすめで引用される個所です。
収入の10%を献金として捧げることを「什一件金(じゅういちけんきん)」と言いますが、なぜ旧約で10%が基準となったのかは何も理由が記されていません。
ちなみに古代世界では10%は安い方です。
他民族では、例えば木の実の3分の1は神のもの、3分の1は鳥のもの、そして3分の1は人間のもの、というように乱獲による弊害を戒める意味も込めて、経験的に33%を自分たちのものにしないという習慣があったといいます。
新約聖書の時代ではこの10%という規定は取り払われました。
「各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。」
(第2コリント9:7)
神の恵みに対する感謝の応答しての捧げものは、あなたご自身が自由に表して良くなったのです。
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マラキ書第3章10節の聖句に対してよくある誤解は、これをギャンブルと同じように見てしまうことです。
たとえば、収入の10%を賭け金として払えば、
「天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐ」
(マラキ3:10)
と神様は言っているのだから、元金よりも増えるだろう、と考えることです。
これは明白な誤りであることは言うまでもありません。
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今日のこの恵みの聖句は、「神様への帰り方がわからない人」向けの言葉です。
神は、やる気の無くなったイスラエルの民に、
「わたしに帰れ、わたしはあなたがたに帰ろうと、万軍の主は言われる。」
(マラキ3:7)
と言います。すると彼らはこう言い返します。
「ところが、あなたがたは『われわれはどうして帰ろうか』と尋ねる。」
(マラキ3:7)
それに対して神は、まず自分の義務を果たし、神との関係を正しいものとせよと語られます。
そのためには、献金が一番実感が伴う方法なのです。
払うものを払わずにいることを神は「盗み」と表現されます。
神に全てを頂いているのですから、それを持ち主にお返ししないでいるということは盗んでいるのと同じです。
全部お返しするのが本当なのでしょうが、これをその一部のたった「十分の一」という形でいいから捧げてみよ、と言うのです。
すると人間は、今まで自分のものだと思っていたものが取り上げられるような感じがして、捧げた結果どうなるか、とても気になります。
今までとは全く違って、神のなさる一挙一動が目に入って見ることもなく見るようになるのです。
神の恵みのわざがよく見えてきて、本当に神様は私の周りで生きて働いておられるのだということが体験的にわかってくるのです。
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捧げることによって神の姿が見えてきます。
約束を確かに果たされ、あふるる恵みを天の窓から注いで下さる神の働きを体験する一日として参りましょう。
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