今日のみ言葉【No.1246】(2016年 3月16日)
そこでヨナは主の言葉に従い、立って、ニネベに行った。
(ヨナ3:3)
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かつてソニーの井深大氏は、日本の教育問題を論議しても一向に功を奏さないのは、本音を隠しながら建前論に終始するからだと喝破しました。
「タテマエ」とは表向きに通用する、いわゆる「きれいごと」で、
「子供が心身共に健全に育ちさえすればそれで良い」
というようなことです。
それは最初は「ホンネ」であったのでしょう。
しかしそのことがかなうと、親も教育側も徐々にその奥の「ホンネ」が出てきます。
「他人様はどうであっても、ウチの子は成績優秀であって欲しい。将来は一流企業に就職して…」
というような類の思いです。
この自分の二重構造に気づき、それを認めることが不毛な教育論議から脱するスタートラインなのではないでしょうか。
この自分を認めつつ、はっきりと自分を生き、神のお取り扱いを受けたのがヨナでした。
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ヨナは魚の腹の中で悔い改め、魚から吐き出されて再び陸の上に立つことが出来ました。
神は再びヨナに語ります。
「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」
(ヨナ3:2)
彼はもう神から逃げることはしません。
「そこでヨナは主の言葉に従い、立って、ニネベに行った。」
(ヨナ3:3)
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実は、ヨナの本音は
「ニネベなんか滅びればいいのに!」
です。
彼は自分が悔い改めの説教をすれば、ニネベの人々は悔い改めてしまう可能性を知っていました。
敵国の住民が自分の説教によって救われるとは、彼にとってあって欲しくない最大の出来事だったでしょう。
ですから、彼の本心は
「わたしは何人との死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」
(エゼキエル18:32)
とおっしゃる神の愛の御心とは全く正反対だったのです。
本音と建前がきれいに分離している姿。
これがヨナの全身像です。
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しかしこれが現実の従順の姿であり、真の従順とはこのようなものなのではないでしょうか。
自分の思いは神の思いとは違うが、自分の意志で自分自身を神に服従させる。
これが「神に従う」ということの真の姿です。
イエス・キリストはローマ兵に捕らえられる直前、ゲッセマネの園で、
「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。」
(マルコ14:36)
と、自分が十字架の苦しみを味わわなくてすむようにと祈られました。
これは肉体を持った人間として当然の思いです。
しかし神の御心はイエス様が十字架について全人類の罪の身代わりとなることですから、この祈りは御心とは反対の祈りです。
聖書では続けて
「しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」
(マルコ14:36)
と、イエス様が自分の思いを神の御心に服従させたことが記されています。
自分の意志で神の意志を選びとること。
これこそ神が人間に望んでおられることであり、神が人と接する際に最も尊重されることです。
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本音と建前があることが本当なのです。
それで良いのです。
大事なことは、自分の中に相反する2つの思いがあることに気づき、それを神の御前に覆い隠さないことです。
両方があっての私であり、自分の思いを貫き通すことができるのにも関わらず、あえて神の意志を選択することに意味と価値があるのです。
ただし、それはかなりの葛藤を経る「ゲッセマネ体験」です。
一気にイエス様のレベルをやろうとせず、まずはヨナのレベルにチャレンジし、まだそこにも到達していな自分を認めるところから始めて参りましょう。
神は私たちのありのままの姿に関わってくださるのですから…。
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今日も「私」のレベルを生きる者として、神を仰ぎつつ進んで参りましょう。
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