今日のみ言葉【No.3479】(2024年10月18日)「キリストの弟子となるとは(2)」

「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。
(ルカ14:26)

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ある人が

「先生、あなたの弟子にして下さい。僕の決意は変わりません」

と入門を願い出ました。

言われたその師匠は、

「あなたの思いは変わらないのだね」

と問うと、彼は勢い込んで、

「はい、もちろんです。僕は自分の意見を変えたことがありません」

と言います。

すると、先生は、

「それではダメだ。弟子とすることはできない」

と言い、彼を残して去って行きました。

おわかりでしょうか?

弟子は師に従うものであり、自分の考えで動いてはいけないのです。

ですから、もし彼が、

「先生、あなたのお許しがあれば弟子にして下さい。それまで私は願い続けます。しかし、許可が下りなければ、それに従います」

と、従順さを示していたら、弟子として採用されていたことでしょう。

さて、それでは、今日の聖句にはどう従っていけばいいのでしょうか?

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捨てる、憎むの意味がキーポイントです。

26節は、口語訳では「命までも捨てて」、また、新改訳では「いのちまでも憎まないなら」となっています。

ここでの「捨てる」とは死ぬことではなく、また、「憎む」とは憎悪の感情を持つことではありません。

もしそうなら、十戒の「あなたの父と母を敬え」、「あなたは殺してはならない」に反します。

聖書は聖書でもって解釈するのが基本原則です。

そこで、これと同じようなことが書いてある旧約聖書を見てみましょう。

マラキ書にこうあります。

「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」
(マラキ1:2-3)

エサウは神から憎まれて、悲惨な一生を送ったかというと、そうではありません。

確かに彼はヤコブに騙されたと知り、殺意を持ちますが、それは一時的なものでした。

エサウとの再会を控え、今でも憎まれているのではないかと恐れたヤコブは大量の贈り物を用意しましたが、エサウはこう言います。

「弟よ、わたしはじゅうぶんもっている。あなたの物はあなたのものにしなさい」
(創世記33:9)

父イサクの葬りの時には、エサウはヤコブと同席しており、和解は完全に成されていたことが分かります。

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つまり、「愛する」とは「選ぶ」ことであり、「憎む」とは「選ばない」ことを意味しているのです。

イエス様は、何を第一とし、何を最優先にするかの優先順位のことを言っています。

ですから、自分の命を「こんな命はダメな命だ」と捨ててはいけないのです。

イエス様が言う「捨てる」とは、そちらを選ばないで、別の方を選ぶということです。

家族を選ばないで、イエス様の方を選ぶ人でなければ弟子とはなれない、ということです。

それは決して「家族を嫌え」と言っているのではありません。

家族から離れ、自立した一個の人間として、自分で選択してイエス様の方を選ぶ人が、本物の弟子となれるということです。

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弟子の道を極めていく人生を送って参りましょう。

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