今日のみ言葉【No.641】(2013年 9月 5日)
主よ、わたしは断じて飲むことをいたしません。
(サムエル記下23:17)
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年老いたダビデはふと、
「だれかベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水をわたしに飲ませてくれるとよいのだが」
とつぶやきました。
その時はペリシテ人がベツレヘムに陣営を張っていましたから、そこに行くには決死の覚悟が必要でした。
しかしその陣営を突破し、ダビデのためにベツレヘムの井戸の水を汲み取ってきた3人の勇士がいました。
その水を前にしてダビデが言ったのが今日の聖句です。
「主よ、わたしは断じて飲むことをいたしません。いのちをかけて行った人々の血を、どうしてわたしは飲むことができましょう」。
(サムエル記下23:17)
ダビデにとって、3人の勇士が命をかけて汲んできた井戸の水は、「血」と感じられたのです。
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イエス様はこうおっしゃいました。
「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。」
(ヨハネ6:53-54)
ダビデは3勇士が自分に成してくれた業の結果である「水」を、もったいなくてもったいなくて飲むことが出来ませんでした。
しかし、イエス様は、遠慮せずに飲みなさい、とおっしゃるのです。
私たちは命の福音の水を遠慮会釈無く、浴びるほど飲んで良いのです。
またそのように飲んで満足することが神の御心なのです。
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Sさんは洗礼を受けられ、熱心に教会に通うようになりましたが、ご家族からは
「にわかクリスチャン」
とからかわれました。
本当にクリスチャンとしての品が自然と醸し出されるのは、だいたい四代目からです。
初代クリスチャンは傷だらけの人生を送ってきています。
そこからようやく救われ、クリスチャンという紙一枚を貼って世間に出ているようなものです。
ですから、ちょっと外から突っつかれれば、ブシューッと昔の古傷から吹き出すのも当然です。
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Mさんは競馬好きのクリスチャンです。
彼は競馬やギャンブルに溺れているところから救われ、クリスチャンになったのですが、古い習慣はまだ抜けていません。
何度かスッテンテンになり、教会に来られ、相談を受け、そのたびに悔い改めの祈りをし、神様の許しを得て、喜んで帰って行かれます。
しかしその翌週、約束したはずの礼拝に来ないので心配していたところ、夜になってから来て、
「礼拝休んで競馬に行って、献金分を稼いでこようと思ったのだけれど、負けてしまった…」
という有様です。
ところが、長年見ていますと、このような方が教会に続けて来られます。
神様の許しを湯水のように浴び、無駄遣いしているようにも見えますが、神様はこのような人を愛されるのが事実です。
そして、牧師のような一介の人間が教え諭して人は変わるのではなく、神様がその人にあったやり方で変えて下さるのです。
神様はMさんに病を与えられました。
幸い、多くの人のいる前で倒れたので、すぐ手当を受けられましたが、お医者さんから
「次に発作が起きた時は死ぬものと覚悟して下さい」
と言い渡されたそうです。
それから彼の生活はガラリと変わりました。
神様はいろいろな方法で人と関わり、その人の生活を福音に沿ったきよい生活へと導いて下さるのです。
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神の恵みは必ず私たちの上に注がれています。
神の恵みを存分に受け、自分を赦し、神の御心にゆだねる一日として参りましょう。
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