今日のみ言葉【No.588】(2013年 6月14日)

主の前に心を注ぎ出していたのです。
(サムエル記上1:15)

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2011年に大津市で中学生がいじめによる自殺をしました。

このことが大きな社会問題となり、今国会で「いじめ対策推進法案」が可決する見込みです。

残念ながらいつの時代でもこのような悲しむべき問題はあります。

サムエル記という名前のもととなる祭司サムエルの母ハンナもその体験者でした。

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夫エルカナにはペニンナとハンナの二人の妻がおり、ペニンナには子供がいましたが、ハンナには生まれませんでした。

古代イスラエルでは不妊の女性はさげすまれる存在でした。

ですから、ペニンナに見下げられ、ハンナはいじめられていたのです。

旧約聖書には人間のありのままの姿が書かれています。

一夫多妻制も、不妊の女性の人権無視も、いじめの事実も、

「なぜこのようなことが?」

とは思わずに、

「そのような事実があったのだ」

と読んでいくのが旧約聖書を読む際に大切なことです。

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ハンナはペニンナに仕返しをする選択もあったでしょう。夫エルカナに切々と訴え、自分に有利な条件を引き出す選択もあったでしょう。

しかし彼女の選択は祈ることでした。

「主の前に心を注ぎ出していたのです。」
(サムエル記上1:15)

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心を注ぎ出すほどの祈りとは一体どういうものだったのでしょう?

神をも説得するほどの芸術的祈りの集大成だったのでしょうか?

ご安心ください。ハンナは正直にこう言っています。

「積る憂いと悩みのゆえに、わたしは今まで物を言っていたのです」
(サムエル記上1:16)

憂いと悩みが山のように積もり、それを誰にも言うことができず、ただ神にそれをあふれ注ぎ出すように語っていたのです。

本音の祈りとは実際このようなものなのではないでしょうか。

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きちんと祈ることができない時ほど真の祈りができる時はありません。

神の御前に心を注ぎだすひとときを持って参りましょう。