今日のみ言葉【No.573】(2013年 5月21日)
父は誓った誓願のとおりに彼女におこなった。
(士師記11:39)
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士師記11章にはまるでテレビのドラマのようなストーリーが描かれています。
父親が遊女に産ませた子エフタは兄弟たちから追い払われ、その結果、彼はグレてやくざ者と一緒に暴れ回る鼻つまみ者となりました。
さて、何年かしてアンモン人が攻めてきました。人々は力に優れるエフタに頭を下げ、
「わたしたちの大将になってください。」
と手のひらを返したように彼を迎え入れ、戦いに勝とうとしました。
彼は抜群の知力と戦力をもってアンモン人を打ち破るのですが、戦いの前に主にこのような誓願を立ててしまうのです。
「もしあなたがアンモンの人々をわたしの手にわたされるならば、わたしがアンモンの人々に勝って帰るときに、わたしの家の戸口から出てきて、わたしを迎えるものはだれでも主のものとし、その者を燔祭としてささげましょう」。
(士師記11:30-31)
ドラマのクライマックスはこの次です。
「やがてエフタはミヅパに帰り、自分の家に来ると、彼の娘が鼓をもち、舞い踊って彼を出迎えた。彼女はエフタのひとり子で、ほかに男子も女子もなかった。」
(士師記11:34)
何と自分のひとり子、ひとり娘が最初にエフタを迎えたのです!
神に約束したことは必ず果たさなければなりません。
それでやむなく、
「父は誓った誓願のとおりに彼女におこなった。」
つまり、父は娘を自分の手で殺し、いけにえとして捧げたのです。
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エフタの軽率な誓願、として聖書では有名な個所です。
私たちはこのところから何を教訓として学べばよいのでしょう?
安易に約束などするべきでないということでしょうか?
セルフイメージが低いことが影響したということでしょうか?
あなたは何を感じられるでしょうか?
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アブラハムもひとり子イサクを捧げましたが、直前に主の使いが現れ、イサクは救われます。
しかしエフタの娘に対して、神は何の応答もなさいませんでした。
アブラハムとエフタの違いは何でしょうか?
それは、神の命令によるかどうか、ということです。
アブラハムの場合は神が捧げよと言われたのです。
「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。
(創世記22:2)
しかしエフタの場合は自分から
「その者を燔祭としてささげましょう」
と言ったのです。
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燔祭とは神への捧げものですが、自分の思いで捧げてはいけないのです。
私たちはたくさん捧げれば捧げるほどよいと思いますし、なるべく高価な物を捧げた方が神様は喜ぶ、と考えがちです。
もしそれが本当だとすると、捧げるという行為の中に「もっともっと」というこの世の価値観が持ち込まれてしまいます。
その結果、犠牲が大きければ大きいほどその人は優秀で信仰深い人ということになり、教会がいつの間にか強い者が勝ち残る世界になってしまいます。
そのような教会では、他と比較してわずかしか捧げられない人は肩身の狭い思いをし、萎縮してしまい、最後にはいたたまれなくなり、去ってしまうのです。
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捧げる時は、神に聞いて捧げるのです。
エフタのようにどんなに大きな犠牲を払ったとしても、それが神に聞いて行ったことでなければ、神は沈黙されるのです。
多大な犠牲を払ったから私たちは神の前に義とされるのではありません。
その払いきれない罪の借金を、神のひとり子イエス・キリストが身代わりになって払って下さった、ということを信じることで義とされるのです。
ですから、神に聞くことが大事です。
「これくらい捧げれば神様も聞いて下さるだろう。力を貸して下さるだろう。」
などという考えは今日を限りに捨ててしまいましょう。
もう一度言います。
捧げる時は、神に聞いて捧げるのです。
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神の恵みに心を浸す一日として参りましょう。
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