今日のみ言葉【No.518】(2013年 3月 5日)
主はモーセに言われた、「主の手は短かろうか。あなたは、いま、わたしの言葉の成るかどうかを見るであろう」。
(民数記11:23)
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日本のお母さんなら誰でも一度は手にしたことのある幼児用ビスケット、「マンナ」。
1930年(昭和5年)に発売された森永の超ロングセラー商品です。
森永の公式ホームページに、マンナの語源が
「旧約聖書にある、“神が荒野をさまよえる民に与え給うた愛の食べ物”manna<マナ>にちなんでいる 」
と説明されています。
「母親が子供に与える最初のお菓子として、栄養価の高いビスケットを食べてもらいたい」
という創業者の森永太一郎の想いと、彼の信仰が反映された商品名です。
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イスラエルの民が何もない荒野で生活した40年間、彼らは飢えることがありませんでした。
天からマナが降ってきたからです。
マナは完全栄養食で、これさえ食べていれば栄養的に不足はありませんでした。
しかし、民はマナに飽きたのです。
「ああ、肉が食べたい。」
(民数記11:4)
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彼らを笑うことはできません。現代の私たちも古代イスラエルと同じ思いを持つでしょう。
たとえば、
「明日から主食はご飯だけ」
となったらどうでしょう?
そう制限された瞬間、パン、ラーメン、そば、パスタ、ピザの映像が浮かび、何とかして今日中にこれら全部を食べて別れを惜しみたいと私なら思います。
あるいは、この先もたまには食べたいものだ、という期待を持ち続けるでしょう。
昔の日本人のように米しか知らなければ、「おまんまがいただけるだけでありがたい」と、何の不満も出ないでしょうが、なまじ多くの食べ物を知っているだけに、現代人は制限されると苦しみを感じ出します。
「ああ、肉が食べたい」とつぶやくのは私たちであることを心にとめ、聖書を読んでいくことが生きた聖書の読み方です。
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さて、モーセはこの民を導くことを重荷と感じ出しました。
「わたしひとりでは、このすべての民を負うことができません。それはわたしには重過ぎます。」
(民数記11:14)
彼は神に祈りましたが、祈りというより泣き言でした。
「わたしにこのような仕打ちをされるよりは、むしろ、ひと思いに殺し、このうえ苦しみに会わせないでください」
(民数記11:15)
これに対して、神は驚くべき答でモーセに語りました。肉を与えるというのです。
それも、
「一か月に及び、ついにあなたがたの鼻から出るようになり、あなたがたは、それに飽き果てるであろう。」
(民数記11:20)
というほど徹底したものとするというのです。
モーセはこの神の答えに、驚いたり感謝したりということを通り越し、ただ唖然とし、
「そんなこと無理だ…」
と思い、神に反論します。
「いくら何でも無理でしょ、そんなこと。大人の男だけで60万人いるんですよ。それに家族を加えたら…」
と神に制限をかけたのです。
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それに対して神が語られたのが今日の聖句です。
「主の手は短かろうか」
つまり、神の力とエネルギーは尽きてしまったのか、いやそうではない、ということです。
「あなたは、いま、わたしの言葉の成るかどうかを見るであろう」
私たちの見えるところがどうあれ、神は約束されたことを必ず果たすお方なのです。
私たちが成すべきことは、見える状況はどんなに困難であり、うまく行かないことが積み重なっていたとしても、
「神の約束は必ず成る」
と信じて行動することです。
もちろん、失敗や過ちから学習することは必要です。
同じ事を繰り返していれば、同じ失敗を続けることになります。
失敗の種をまけば、失意という実を刈り取るのは当然です。
失敗したことを葬り去るのではなく、改善し、工夫し、その失敗を生かすのです。
そのためには、神に制限をかけないことです。
無尽蔵の資源を持つ神を信じて生きるとは、神の約束は必ず成ると信じてあきらめないでチャレンジする人生なのです。
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「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。
(マルコ10:27)
この御言葉をかみしめる一日として参りましょう。
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