今日のみ言葉【No.2957】(2022年11月25日)「弟子も十字架を負う(7)」
だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。
(ルカ9:23-24)
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十字架を負うシリーズの最後として、星野富弘さんの絵と詩を見ていきましょう。
恵みによって自分を捨て、十字架を負うとは、このような生き方なのだという生きた実例です。
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星野富弘さんは身体能力に優れた体育教師でしたが、体操部の部員を指導中に頸髄を損傷し、以来、首から下の身体が動かなくなってしまいました。
入院中、牧師となっていた先輩が聖書を持ってきてくれ、星野さんは
「そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり」
(第1コリント12:22)
という言葉に一筋の光明を見出します。
神様は自分のような者にも役割を与えて何かをさせようとしておられる、と感じ取ったのです。
星野富弘さんは、入院中に洗礼を受け、口にくわえた筆で絵を描く訓練をし、神の御業をあらわす草花を描き、詩を添えました。
それは人々の心を打ち、今や全国で花の詩画展が開かれるようになっています。
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星野富弘さんの自伝『かぎりなくやさしい花々』(偕成社)の中にこのような箇所があります。
「でも、うけた傷は、いつまでも、ひらきっぱなしではなかったのです。(中略)傷あとはのこりますが、そこには、まえよりつよいものがもりあがって、おおってくれます。からだには傷をうけ、たしかに不自由ですが、心はいつまでも不自由ではないのです。
不自由と不幸は、むすびつきやすい性質をもっていますが、まったく、べつのものだったのです」
また、星野さんはこのようにも語っておられます。
「本当の不自由とは身が動かないことではなく、過去に縛られた心の不自由である事を知りました」
体が自由に動き、どこへでも行ける自由は失われました。
この世では体が動かない不自由さに制限されていますが、魂が救われている喜びがあり、そこに真の自由があることを彼は知らされたのです。
星野さんはこの神の恵みを味わい、その恵みによって自分を捨て、神が負わせた十字架を、自分が喜んで負っていく生き方をなさっています。
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星野富弘さんの「悲しみの意味」という詩を紹介します。
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冬があり夏があり
昼と夜があり
晴れた日と雨の日があって
ひとつの花が咲くように
悲しみも苦しみもあって
私が私になってゆく
「悲しみの意味」【富弘美術館公式サイト】
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神の恵みを知らされて十字架を負う。
真の自由をいただく人生を生きてまいりましょう。
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