今日のみ言葉【No.440】(2012年11月 2日)

初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について
(第1ヨハネ1:1)

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初代クリスチャンはたいてい

「あのどん底から私は救われた!」

という劇的な救いの体験を持っているものです。

ところが、クリスチャンホームに育った子どもは、生まれた時から神様がいると教えられて育つので、

「あのどん底から私は救われた!」

という親のようなドラマチックな体験を持たずに信仰生活を続ける人が少なくありません。

初代の親から見れば、

「燃えず冷えず」

の生ぬるい信仰生活と見えることでしょう。

2代目3代目クリスチャンとしては、これが普通なのですが、時に、

「もっとはっきりとした神様体験を持ちたい」

と願い求める人もいらっしゃいます。

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キリスト教は体験の宗教です。

今日の聖句のように、イエス・キリストを理論理屈で知ったのではなく、

・聞いた

・目で見た

・手でさわった

という現実体験があって、そこから

「神が、そのひとり子を、私のために、与えて下さった」

という感動に動かされ、教会に行き、礼拝し、信仰生活を続けていくのです。

ですから、キリスト教から「感動」を取ったらおしまいです。

その感動は狂信的なものではなく、事実から生まれた動かしようのない感動です。

私たちはそれを日々新たにしていかなければならないのです。

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洗礼を受けた最初の年、静岡県の御殿場で全国的なクリスチャンの集会がありました。

私はお金がないので

「行けない」

と、行くことさえ考えないでいました。

ところが、

「あなたのために全額出してくれる人がいるから行ったらどうだ」

と牧師から言われて驚きました。

聞けば、

「本来は自分が行くために積み立てておいたお金だが、丸山さんが行けないと聞いたので、自分は行かずに、彼に代わりに行ってもらおう。」

というお金だったのです。

私はその方の身代わりの犠牲に感動しました。

そして、キリストの愛とは、キリストを信じて生きるとはこういうことかと実地で学びました。

あの時の犠牲の愛が、今も私を前へ動かしています。

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今日も神の愛を体験されますように…。

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