今日のみ言葉【No.400】(2012年 9月17日)

わたしは、自分を強くして下さったわたしたちの主キリスト・イエスに感謝する。主はわたしを忠実な者と見て、この務に任じて下さったのである。
(第1テモテ1:12)

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今日の聖句でパウロは、

「主はわたしを忠実な者と見て、この務に任じて下さったのである。」

と言っていますが、続く13節では、

「わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。」

と言っています。

忠実さが反対の方向に向かっていたのです。

彼は自分自身を、

「わたしは、その罪人のかしらなのである。」
(15節)

とまで表現していますが、誤った知識に基づいた忠実さは、人を暴走させます。

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しかし彼は神のあわれみを受け、ダマスコ途上での回心を経て、伝道者となりました。

なぜ彼は神のあわれみを受けて再起できたのでしょうか?

パウロがとても優秀な人間なので、神様が「後でコイツは使えるかも…」とでも思ったからでしょうか?

パウロ自身はこう語っています。

「キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し」
(16節)

という、神の無条件の赦しがあったからだというのです。

そして、

「彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるため」

だったのです。

パウロのように償いきれないほどの犠牲者を出した人間も、神のあわれみによって全てを許され、永遠の命を受けて生き直すことが出来るのです。

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ところで、パウロがまた暴走し、失敗をするという可能性はなかったのでしょうか?

つまり、私たちも一度はキリストの救いに入れられながら、神様に背く可能性はあるのかということです。

私は

「ある」

と思います。

許され、愛されていながら、神に背を向ける可能性を持っているのが人間です。

しかし、神はその人間を愛されています。

それは、

「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」
(第1コリント13:7)

という愛です。

その愛を持って、私たちを信頼し、実力が3のところを5と評価し、実力が5なのに10出来る者として見て下さるのです。

これは、ひいき目や買いかぶりではありません。

「きっとあなたはそうなる」

という信頼なのです。

私はここに、背筋がゾクゾクッとなるほどの神の信頼を感じます。

パウロを背教ではなく殉教にまで進ませたものは、この神の信頼です。

神に反逆していたこの者を、伝道者としての

「務に任じて下さった」

というイエス・キリストの信頼に、何としても応えていかなければならない、という熱い思い、熱い信仰がパウロを前へ前へと進ませたのです。

あなたにも、この神の信頼が注がれています。

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神の信頼に気づく一日として参りましょう。