今日のみ言葉【No.1807】(2018年 7月21日)「 神の祝福を受けるための訓練『しもべとなる』(2)」
食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。
(ルカ22:27)
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「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず」
徳川家康の遺訓とされている言葉です。
3歳にして母親と生き別れ、6歳からは人質として生きなければならず、数多くの苦労を味わった末、人生の終盤で天下を取った人ならではの人生哲学が表されています。
家康の場合は自分の意志とは無関係に苦労を選ばされたわけですが、キリストの弟子という「僕(しもべ)」となることはその反対で、自らがしもべとなることを選びます。
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現代日本では人を奴隷扱いはしません。
もちろん、煮詰まった間柄や病的な人間関係では、いつの間にか上から目線で…、ということはあり得ます。
しかし、通常、最初はお客様扱いです。
楽ですよ、それは…(笑)。
そこに慣れてしまったら危ないのです。
自分はしもべとなる道とは別の道を行っているのだと、どこかで気づかなければなりません。
キリストの弟子学校の「しもべ」の門は最初は閉ざされています。
どうやったら開くのでしょう?
右に引いても左に引いても、押しても引っ張っても、叩いてもその門は開かれません。
しもべの門は、身を低くし、這いつくばり、時にはその下を掘ってくぐり抜ける門だからです。
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このことを献身者の世界の特殊用語で「もぐる(潜る)」と言います。
しもべとなるとは、相手の下となって仕えることを意味します。
ですから、潜ってでも相手の下にさせてもらうこと。
これがしもべとなる訓練の第一であり基本です。
初歩的な例では「カバン持ち」というものがあります。
お客様をご案内する時に、そのカバンを持たせていただくことです。
「カバンをお持ちいたします」
ところがなかなか持たせてもらえません。
「大丈夫です。自分で持てますからお気遣いなく」
この段階で、普通の人なら
「ああ、そうですか」
と言って何ら構いません。
もしあなたが「従う」訓練中の人なら、たとえ持ちたくても
「はい、わかりました」
と言って引き下がらなければなりません。
しかし、しもべとなることを選んだ人は
「ぜひ持たせて下さい」
と言って、極端な表現をすれば「強引に奪うようにして」カバンを持たなければなりません。
ところが、相手もしもべの精神を持ち、謙遜な人の場合、かなり強力に
「いえ、本当に大丈夫です」
と断られます。
ここで、
「いえ、そうおっしゃらずに」
「いや、大丈夫です」
という応対が何度も続きます。
はたから見ると、なんとバカバカしいと見えるかも知れませんが、そこには目に見えない「穴掘り合戦」が繰り広げられているのです!
しもべとなるとは、何がなんでも相手の下になり、しもべとさせていただくことなのです。
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上級者のイエス様はさすがに違います。
仕えることをサラリと、相手の負担にならないようにして、すでにしておられるのです。
今日の聖句では
「食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている」
(ルカ22:27)
とあります。
「仕える、しもべとなるとは○○である△△である」などという理論優先ではなく、実はその前、弟子たちが感じない内に
食事の給仕役をなさり、しもべとなっておられたのです。
この「イエス様が私のしもべとなっていてくださる」という恵みのもと、何年かかってでもいいですから、この段階まで到達しようと潜っていくことが私たちの今日の課題です。
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強引に穴を掘って相手の下に潜る段階を通して、私たちはしもべの世界に入っていきます。
そしてやがては、相手が気づかない内に仕えさせていただいている「しもべ」となることができます。
その時は必ずやって来ます。
そうなることを思い描き、今日はまず穴を掘り、「もぐる」ところから始めて参りましょう。
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