今日のみ言葉【No.2747】(2022年 2月16日)「最後には勝っている」
「こうして、あなたはわたしが主であることを知る。わたしを待ち望む者は恥をこうむることがない」
(イザヤ49:23)
——————
オリンピックやスポーツの番組を見る時、私はその結果を知ってから見ることにしています。
それではつまらないのではないかと思う人もおられるでしょう。
しかし、そうせざるを得ない理由があります。
若い時のハラハラ・ドキドキ感は楽しみの源泉でしたが、年齢を重ねた今となってはストレスになるからです!
「この人が金メダルを取った」
「こちらのチームが優勝した」
と事前に知って、安心してビデオを見るのが今の私の視聴スタイルです。
神のなさるわざをスポーツ番組にたとえるなら、逆転に次ぐ逆転の手に汗握るゲームを観戦しているようなものです。
しかし、
「いろいろあっても、最後には勝っている」
と知りつつ、その途中経過を見ているので、安心していられます。
神を待ち望むとはこのようなものです。
-*-*-*-*-*-*-
神はこの保証を今日の聖句で表しておられます。
「こうして、あなたはわたしが主であることを知る。わたしを待ち望む者は恥をこうむることがない」
(イザヤ49:23)
主を待ち望む者は恥をこうむることがないのです。
しかし、目の前の現実では自分の状況が不利になったり、負けそうになったりの試練がやって来るので、御言葉とは反対の「恥をこうむる」方が本当だと感じ出します。
神が与える試練は、神の救いの計画をより深く、より正確に知らせるためにあります。
ところが、人はそれを逆に取り、
「しかしシオンは言った、『主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた』」
(イザヤ49:13)
となるのです。
-*-*-*-*-*-*-
ここが勝負所(しょうぶどころ)です。
先程のスポーツ観戦にたとえるなら、一旦自分はプレイヤーの立場を離れ、観客になって自分の試合を見てみるのです。
そうすると、
「いろいろあっても、最後には勝っている」
と知りつつ、その途中経過を見る、というスタイルで自分の現実をとらえられるようになります。
それができた後、観客席から再び自分の現場という試合の中に戻るのです。
また平安がなくなる時があるでしょう。
そうしたら、
「わたしを待ち望む者は恥をこうむることがない」
(イザヤ49:23)
の御言葉に何度でも戻るのです。
こうやって、
「主はわたしを忘れられた」 vs 「主を待ち望む者は恥をこうむることがない」
の戦いは続きますが、最後に主を待ち望む者が勝っているのです。
-*-*-*-*-*-*-
その信仰に立ち、平安をいただいて今日の歩みを進めて参りましょう。
-*-*-*-*-*-*-
-*-*-*-*-*-*-
□ ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ □
■メールマガジン「今日のみ言葉」
■発行責任者:山形ジョイフルチャーチ 丸山芳浩
■ご意見ご感想は、 maruyama@mikotoba.org までどうぞ
■Webサイト mikotoba.org
■Youtube 丸山芳浩師 メッセージチャンネル
www.youtube.com/channel/UCXkISdmuTWhsbW1i4DNey6w
■御言葉メールの申込、停止は全て自動でなされます。下記メールアドレスに件名も本文も無い空メールを送信して下さい。
☆御言葉メールをお申し込みになりたい方は
→ reg@mikotoba.org
(仮登録メールが送られますので、その中のリンクをクリックして本登録となります)
★御言葉メールを停止したい方は
→ del@mikotoba.org
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません