今日のみ言葉(2012年 4月18日)【No.288】
イエスはそれを聞いて言われた、「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。
(ヨハネ11:4)
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死んだラザロがイエス様によってよみがえった個所です。
この聖書個所の
「この病気は死ぬほどのものではない。」
を読んだ人の中には、神様が直接この個所を通して自分に語って下さった、と示され、生きる力を与えられた方々がいらっしゃることでしょう。
しかし、ラザロはこの時死からよみがえりましたが、やがて寿命が来て、彼は死んだのです。
病気が治っても、人間の命はやがて尽き、誰でも死を迎えます。
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榎本保郎牧師の『新約聖書一日一章』の中に、この聖句にまつわるお話がありますので、抜粋してご紹介します。
貧しいK青年は結核になり、療養所でキリスト教に触れ、退院後教会に来られます。ところが病気が再発して入院しました。
「どんなにつらい思いをしているかと心配して見舞いに行ったとき、彼は非常に晴れやかな顔をして言った、『先生、聖書を読んでいたら、この病気は死ぬほどのものではない、という御言葉を与えられました』。」
「その晴れ晴れした顔を見た時、私はなんとも言えない自分の不信仰を示された思いがして、偉いやつだなと思って帰ってきたことを、いまもって忘れることができない。」
ところが彼はその後、妻子を残して結核で亡くなるのです。
榎本先生は考えます。
「そうするとこの病気は死ぬほどのものではないという、この御言葉はどうなったのかということになる。」
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「死ぬほどのものではないということは、この病気では死なないというような意味ではなく、この病気は死ぬためにあるのではなくて、その目的は神の栄光のためにあるという意味である。」
「彼が入院した当時、国立病院では伝道が許されなかった。しかし、彼が入院することによって、見舞いに行くということから、そこに伝道の道が開け、多くの人が信仰に導かれた。」
「若くして死んでいった彼の死によって、神の栄光があらわされたということを考えると、彼の死は単なる死ぬためのものではなかったわけである。どのような人生が本物の人生だろうかということを考えさせられる。」
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これを読んで、病気は全て治らないのだ、と勘違いなさらないで下さい。
罪ある世では病や悲しみを体験します。
しかし聖書では、
「愛する者よ。あなたのたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。」
(第3ヨハネ1:2)
とあるように、基本的に人間は健康であることが神の御心です。
聖書が言うのは、神様の素晴らしさが、一見、何も出来ない状態でいる私たちを通して現されるということです。
癒しを求めて良いのです。健康を祈って良いのです。
しかし、願った通りにならなくとも、そこに神の深いご計画があることを覚えて参りましょう。
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今日も神の栄光を現す一日となりますように…。
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