今日のみ言葉(2011年7月12日)【No.114】
「イエスは彼に言われた、『もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもで
きる』。その子の父親はすぐ叫んで言った、『信じます。不信仰なわたしを、お助けくだ
さい』。」
(マルコ9:23-24)
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今日の聖書の個所は、子供の病を癒してもらおうとやって来た父親が登場します。
彼の心には、イエス様なら癒していただけるという信仰と、「もしできれば…」というま
だ完璧には信じられない気持ちが同居していました。
信じ切ってしまって、その結果が自分の思うものとは違う時、人間はショックを受けます。
そのショックを和らげるためのセーフティネットとして、「できますれば…」という思い
を忍ばせているのです。
できたら嬉しいけれど、できない場合もあるのだからそれはそれで仕方がない…、という、
一見大人びた態度ですが、実はこの父親は傍観者として人生を生きていることに気づいて
いないのです。
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イエス様はこの父親にチャレンジしました。
「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」
信じれば子供は癒される、だから信じよう、疑いが差し挟む余地の無いほど完璧にこの方
の力を信じよう…、と思えば思うほど、「でもそうならなかった場合は…」という考えが
頭をチラホラと駆けめぐります。
疑いを持ってはいけないと思えば思うほど、信じることのできない自分が現れます。
どうしよう、疑えばきりがない。信じなければ子供は癒されない。しかし信じようとして
も信じ切れない…。
進退窮まって、とうとうこの父親から自分のありのままの位置からの声が発せられました。
「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」
信仰と不信仰が同居していて、癒されるという確かな信仰を持てない私ですが、子供を助
けて下さい。いえ、子供ではなく、この私をお助け下さい、という叫びだったのです。
子供ではないのだ。この私なのだ。
ここから信仰の新たなスタートラインが引かれるのです。
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「不信仰なわたし」に気づくことからスタートしていきましょう。
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