今日のみ言葉【No.2486】(2021年 3月 5日)「信仰の『ところが』」
ところが、エリサベツは不妊の女であったため、彼らには子がなく、そしてふたりともすでに年老いていた。
(ルカ1:7)
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家の中に入ってきた蝶が、外に出ようとして透明なガラス窓と格闘しています。
蝶からすれば外はすぐ目の前にあるのに、どうしても出られません。
正しい方向に向かっているはずなのに、なぜか前に進めず、遮られてしまう。
私は隣の窓を開け、そちらに行くようにやさしく手をかざしますが、蝶はそれを攻撃と受け止めたらしく、逃げようとして一層強くガラス窓にぶつかっていきます。
答はすぐそばにあるのに、自分が正しいと思う方向に固執するため堂々巡りを繰り返す…。
何か自分の姿を見せられた思いがしました。
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神への信仰を持つ者には、この蝶が味わったような葛藤は起きない、という保証はありません。
神の御心を大事にし、聖書に従い、正しいことを行っているはずなのに、祝福を感じられないということはあります。
ルカ1章のザカリヤとエリサベツ夫妻はまさしくその状況の中にいました。
ザカリヤは忠実な祭司であり、エリサベツは大祭司アロンの家系で血筋は由緒正しく、ルカはこの二人を評して
「ふたりとも神のみまえに正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行っていた」
(ルカ1:6)
と記すほど、彼らは模範的人生を送ってきた人たちです。
しかし、
「ところが、エリサベツは不妊の女であったため、彼らには子がなく、そしてふたりともすでに年老いていた」
(ルカ1:7)
とルカは続けて書いています。
信仰にはこの「ところが」というものがあるのです。
当時、正しい人は神から祝福されると考えられていました。
それは経済的に豊かになることであったり、子供が生まれることが祝福のしるしであると理解されていたのです。
ところが、ザカリヤ夫妻には子供が与えられません。
これは理解しがたいことでした。
「神様、なぜですか?どうしてですか?」
いくら祈っても明確な答は与えられません。
ザカリヤとエリサベツはガラス窓に向かう蝶のように現実と格闘し、神の御手が見えません。
しかも、日にちが経てばたつほど希望に向かうのではなく、年老いて子が授かる可能性がどんどん消えていく毎日を送らざるを得なかったのです。
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信仰者には、「自分の歩みは間違いない」と確信していても、この「ところが」の現実を歩まなければならない時があるのです。
しかし、神の側には、人間とは別の「ところが」があります。
1つのドアが閉じられた時には、別のドアが開けられている。
これが私たちが抱くべき信仰の姿です。
神は蝶を逃すためにすぐ隣の窓を開けていてくださっているのです。
ザカリヤとエリサベツはこの神のわざを体験することになります。
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信仰の「ところが」に出会ったら、すぐ隣に神の「ところが」があることを覚えましょう。
今日一日、謹厳で実直な信仰生活を送れますように…。
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