今日のみ言葉【No.2464】(2021年 2月 5日)「復活のイエスと弟子たち(1)」

彼らは、イエスが生きておられる事と、彼女に御自身をあらわされた事とを聞いたが、信じなかった。
(マルコ16:11)

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聖書には神の癒やしの記事がありますが、癒やしはキリスト教に限ったものではなく、他宗教でも見られます。

現代医学が到達した範囲内では起こり得ないことが、信じる世界では起こるのです。

だからといって、「科学は無用だ」などと考えてはいけません。

信仰の癒やしの科学的メカニズムは、これから研究が進めば明らかにされるのかもしれないからです。

私たちは科学の限界を認めつつ、信仰によって現実を受け止める生き方をするのです。

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イエス様はよみがえった後、

「まずマグダラのマリヤに御自身をあらわされ」
(マルコ16:9)

ました。

彼女は

「イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいる所に行って、それを知らせた」
(マルコ16:10)

と、復活の事実を知らせに行きましたが、

「彼らは、イエスが生きておられる事と、彼女に御自身をあらわされた事とを聞いたが、信じなかった」
(マルコ16:11)

という反応に出会います。

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通常、歴史的事実というものは、その時、その場所にいれば、誰にでも認識できたはずの出来事を言います。

しかし、復活の出来事はこれとは違い、「そんなことはありえない」という科学の壁が行く手を遮ります。

当然、「聞いたが、信じなかった」という反応が出てくるわけです。

イエス・キリストが復活したという出来事は、歴史的事実でありながら、実は信仰的事実なのです。

復活は、イエス様の方からその人に御自身を現さなければ、同じところにいても知ることができません。

科学的に検証でき、納得したから復活を認めるのではなく、まず私たちは聖書を通して復活の出来事を知ります。

そのことを考え、祈る時に、心の中で神からの問いを受けるのです。

「汝、信ずるか」

それに対して、

「我、信ず」

と、説明ができなくともそれを受け入れることが、復活を信仰的事実として受け止めることなのです。

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神の迫りを感じた時には、それに誠実に応答する生き方をして参りましょう。

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