今日のみ言葉(2012年 3月10日)【No.260】
すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」。
(ルカ7:49)
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今日の聖書個所は、律法に厳しいパリサイ人シモンの家での出来事です。
イエス様を敵視するパリサイ人がほとんどの中で、このシモンはイエス様を食事に招きました。
しかし、どうやら人々に人気のイエス様見たさが本心であって、心から尊敬してのことではなかったことが、
「わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。」
という一文でうかがい知れます。
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そこに
「その町で罪の女であったもの」
が入ってきました。
過去に罪はあっても、今はゆるされているので
「罪の女であった」
と過去形で記されています。
しかしパリサイ人シモンの目では、
「それは罪の女なのだから」
と、過去の罪は赦されないものとしてその女を見ているのです。
ここに十字架を通して人間を見る神の見方と、律法を通して人間を見るパリサイ人の見方の違いが現れています。
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この女は驚くべき事に、
「涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。」
という行為をしました。
自分の罪が赦された感謝としての愛の行為です。
イエス様はこれを、
「この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。」
と語られました。
多く許された者は多く愛するのです。
私たちの愛のバロメーターは、いかに自分が多く許されているかを見出しているかです。
それは、神からの恩義を感じようと、無理矢理自分に思いこませようとすることではありません。
「それは罪の女なのだから」
という私が、何をしなくても、イエス様が十字架について下さったことによって、
「罪の女であった」
という状況に変えられた、ということを思いめぐらし、そこに感謝を見出していけばよいのです。
本物の愛の行為はそこから生まれてきます。
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本当にそのままでゆるされている、という福音を聞いて参りましょう。
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