今日のみ言葉(2012年 3月1日)【No.252】
イスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう」。また、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
(マルコ15:32)
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今日の聖句は、イエス様が十字架につけられた時の個所です。
人々が「いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう」と言ったのは、
・十字架上で苦しんでいるだけなら救い主でも何でもない
・そのままでは神の子とは信じられない
・十字架から降りる力があるのを見たら救い主と信じよう
という意味です。
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見たら信じようとする人は、現在、傍観者の立場にいる人です。
イエス・キリストの言葉と行いを学び、教会やクリスチャンを注意深く観察する人です。
そして納得できてから信じようとします。
うかつに橋を渡ろうとせず、石橋をたたいて渡る慎重で思慮深い人です。
私の経験から言うと、このタイプの人は自分から献金とお墓の話をし、それから洗礼を受けられます。
この先ずっと信仰生活を続けていけるかどうか、ある程度見極めをつけ、自分が亡くなった後の家族の生活のことも考えてから受洗に踏み切るのです。
この世を安全に生きるには、これくらいしっかりした生き方が必要なのかもしれません。
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しかしイエス様はこれ以上の信じ方を提唱なさいました。
それは、
「見ないで信ずる者は、さいわいである」。
(ヨハネ20:29)
という生き方です。
これは復活のキリストを信じることが出来ない弟子のトマスに対して言われた言葉です。
イエス様は十字架の釘跡を彼に見せ、
「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
と、見て信じることを一つもお責めになりませんでした。
神は常に私たちのありのままの姿に働きかけられ、そこにスタートラインを置かれ、関わりを始められるからです。
そして、自らの力で確かめて信じるという自分の理性を土台とする信仰から、見ないで信じる、というキリストへの信頼を土台とした信仰へと導いて下さったのです。
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あなたのありのままの姿からの一歩を踏み出してみましょう。
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