今日のみ言葉【No.2237】(2020年 4月 3日)「復活問題(1)」

2020年4月3日

復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのもとにきて質問した
(マルコ12:18)

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ある貧乏な牧師がプロポーズしようにも指輪を買うお金がありませんでした。

彼は川原に行ってハート型の石を見つけ、それを一生懸命磨き、手紙を添えて彼女に渡しました。

「僕の結婚の意志はこの石のように固い」

これが結婚の決め手となったという何ともロマンチックな実話があります。

ここぞという時に絶対に間違いのないものを出せるとしたら、それは大変心強いことでしょう。

サドカイ人たちがイエス様に出した質問は、まさにその最強の質問でした。

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この聖書箇所は、火花が散るような緊張した場面なのですが、それを正確に知るにはこの背景を知る必要があります。

まず、この日は十字架につく週の火曜日です。

キリストが十字架につけられるのは、過越の祭りの金曜日でなければなりません。

なぜなら、十字架とは、神の側からすれば、イエスという「過越の小羊」を民の命を救うために屠り、その命を捧げることだからです。

犠牲となる小羊は傷のない完全なものであるかどうか事前に検査を受け、それに合格したものだけが捧げられます。

祭司長、律法学者、長老たち、そしてパリサイ人やヘロデ党の者らが次々とやって来てイエス様を試みたのは、彼らには全くその意識はありませんでしたが、神の側からは

「イエスは十字架で命を捧げ、全人類の罪を負う資格を有する完全なる神の小羊である」

ということを証明する大事な意味があったのです。

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そこにサドカイ人が登場しました。

彼らの特徴は、

「復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのもとにきて質問した」
(マルコ12:18)

とあるように、復活を否定し、その反対に死後の復活を信じていたパリサイ人と対立していました。

おそらく、復活に関する論争でサドカイ人がパリサイ人を苦しめていた最強の武器がこの箇所の質問だったのです。

サドカイ人を野球の投手にたとえてみれば、イエスという強打者を三振に仕留めてやろうとして、今まで誰も打てなかった豪球を自信満々で投げ込んだようなものです。

ところが、イエス様はこれをスカーン!と打ち返し、ホームランにしてしまったのです。

侍の決闘という別のたとえで表すなら、サドカイ人が繰り出した必殺の一剣を、逆に真向上段からイエス様が斬って捨てたような感じです。

そのいきさつは次回以降に続きます。

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復活を否定するどんな挑戦があっても、キリストの復活の事実は揺らぎません。

復活を信じる者は、死の恐怖に脅かされ、気持ちが崩れてしまったとしても、いつまでも打ちしおれているわけではありません。

「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである」
(第2コリント4:8-10)

キリストの復活の上に人生の土台を据え、今日の一日を過ごして参りましょう。

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