今日のみ言葉(2011年8月9日)【No.142】
「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろ
う。」
(マタイ6:22)
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子供の目がなぜ生き生きしているのかというと、1つのものに集中しているからです。
ちょうどカメラのレンズの焦点を合わせるように、子供の好奇心は1点に集まります。
そうすると黒目の部分が大きくなり、白目の部分とのコントラストも相まって、生き生き
とした澄んだ目に見えるらしいのです。
逆に、目移りしている眼は生き生きとは見えません。
1点に定まらず、焦点が合っていないのです。
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今日の聖句は、神と富という文脈の中で語られている個所です。ただ単に目の健康のこと
を言っているのではありません。
神と富の両方に目移りして焦点が定まらないと、内なる光はさほど輝かないのです。
しかし「天に宝を積む」という方向に定まれば、自ずと瞳は生き生きし、全身に光が行き
届きます。
そうすれば、年齢や状況に関係なく、
「あの人は輝いているなー」
という声が上がってくるのです。
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米沢興譲教会の礎を築いて下さったおばあちゃん方の中に、遠藤キン姉がおられました。
毎年夏になると、教会学校のキャンプのために献金をして下さいます。
小銭がギッシリと詰められた空き缶の貯金箱、数本をビニール袋に入れ、教会に届けて下
さるのです。
ある時、「遠藤のおばあちゃんにお礼をしよう」と感謝の寄せ書きを書いて送ったことが
ありました。
すると折り返し、おばあちゃんからお叱りのお電話をいただきました!
実際は家族の方がお話し下さったのですが、こういうことでした。
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申し訳ありません。うちのおばあちゃんがこんなことを言っておりますので、その通りに
伝言させていただきます。
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「私は天に宝を貯えているつもりで、1年間小銭を集めて、それを捧げているのですよ。
お礼をいただいたら地上でその報いを受けてしまうことになる。」
「もしこの次、このようなお礼をいただいたら、私はもう二度と献金いたしません。」
あの柔和な光をたたえた遠藤キンおばあちゃんの厳しい一面に触れ、一同、身を正したこ
とを覚えています。
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間違ってならないのは、これが律法や義務で行っているのではなく、また自分の金儲けの
ために神を利用する、ということではないことです。
神がそのひとり子を私のために下さった…、という救いの喜びと感動から、その応答とし
て「献げる」という行為が生まれてくるのです。
自分のために使って何ら差し支えのないお金を進んで献げる背後には、そのような霊的健
全さが必要です。
救いに感動し、その応答として一日を生きる。
これが内なる光を輝かせ、澄んだ目で生きるための秘訣です。
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今日も一日、神に心の焦点を合わせ、感動の一日を送って参りましょう。
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