今日のみ言葉【No.1878】(2018年11月10日)「 嘆きの後の希望(1)」
しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく。主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。
(哀歌3:21-23)
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この御言葉メールのことを「源泉かけ流し温泉」だと言う人がいます。
自分は毎日読むわけではない。しかし、読む読まないに関係なく毎日御言葉が流れてくる。
そのことが人が浴槽にいるいないに関わらず、滔々と100%源泉の湯が流れ出ているかけ流し温泉にたとえられたのでしょう。
神の恵みとはそのようなものです。
その恵みを人が求める時も与えられ、受けずに流してしまう時も関係なく与えられます。
それと同じことが神の裁きについても言えます。
神が忍耐を持って待っておられる期間が終わり、裁きが始まれば、人の思いや願いとは関係なく、正しく厳格な裁きが続いていきます。
イスラエルはそれをバビロン捕囚での悲惨な出来事として味わい、その嘆きが哀歌に記されています。
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哀歌の背景にはバビロニアによるエルサレム征服があります。
その残虐な仕打ちの描写には目を覆うものがありますが、哀歌の記者は自分たちの神への不従順がこの事態を招いたのだと述べています。
「主はその計画されたことを行い、警告されたことをなし遂げ、いにしえから命じておかれたように、滅ぼして、あわれむことをせず、あなたについて敵を喜ばせ、あなたのあだの力を高められた」
(哀歌2:17)
彼の嘆きは1章からずっと3章まで続いています。
しかし、今日の聖句の所では希望が語られています。
なぜなら
「わたしはこの事を心に思い起す」
(哀歌3:21)
と、過去に体験した神の恵みの記憶があったからです。
神は我々をただ苦しめるためだけに打ちたたいているのではない。
あの恵みの神がなさっていることなのだから、この苦しみには何か必ず意味があるはずだ。
哀歌の記者の記述は一転してこうなります。
「それゆえ、わたしは望みをいだく」
(哀歌3:21)
そして、全く希望の見えない中で、
「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」
(哀歌3:22)
という信仰の言葉が出てくるのです。
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ただし、絶望の中にいる人間がそんなに簡単にV字回復するわけはありません。
「新しい別の考えを頭に入れたら気分は明るくなる」
というのは最初と最後だけを取り上げた表現であって、現実にはその途中の膨大で長いプロセスがあります。
哀歌3章21節の希望へと至る前に、1章1節から3章20節までの嘆きの期間が必要なのです。
「つらい、苦しい。つらい、苦しい。つらい、苦しい…」
内側に閉じ込められた辛さを表に出すことを自分に許すと、初期の段階ではとめどなく出てきます。
決壊したダムのように勢いよく流れ出て、もうこれは一生続き、自分でも止められないと思うほどです。
しかし、有限な存在の人間ですから、あらかた自分の中の思いを出すと、その流れが緩やかになる時がやって来ます。
そして、うめくことに慣れ、嘆くことに疲れを覚えるようになります。
飽きてくるのです。
そうなると、嘆くためには過去の嫌な記憶をわざわざ思い起こし、気力を振り絞らなければできないようになります。
これは重労働。そしてここが底です。
嘆きの後に
「しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく」
(哀歌3:21)
の時がやって来ます。
その時から、人は希望を見つけようとし始めるのです。
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嘆きは流れ出てくるものです。
やがて希望が見えてくる時があることを信じ、今日の一日を生き抜いて参りましょう。
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