今日のみ言葉【No.1871】(2018年11月 1日)「 教会(1)」

「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」
(マタイ18:20)

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今日の聖句は、キリストの名によって二人以上が集まれば、イエス様はそこに共にいらっしゃるという約束です。

これが教会の最小単位です。

そこには決まった制度も組織もありません。

初代教会はイエス様の弟子たちを中心とする集団であって、そこから他の団体にはない教会ならではの特色が出てきました。

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聖書が書かれたギリシャ語では、教会を「エクレシア」と言います。

これは「呼び集められた者たち」という意味で、キリストを信じる群れは神から呼び集められ、この世から召し出された者たちであることが強く意識されています。

教会は、制度や組織の維持に汲々とするところではなく、神に呼び集められたのだから、

(1)神と人との愛の交わり

(2)キリストを通しての人と人との愛の交わり

によって成り立ちます。

もちろん、大宣教命令を下された我々が伝道をするためであるとか、福音の真理を守るための組織であるとか、キリストの体なる共同体であるとか、様々な教会観があります。

しかし、教会の本質は愛の交わりです。

キリストの十字架によって罪赦されたと信じる者たちが、その神を愛し、キリストを通して兄弟姉妹となった者同士が互いに愛しあう活きた信仰者の群れ。

それが教会なのです。

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私が初めて教会に行った時は、大学の工学部の学生でした。

今思えば、徹底的に科学的思考を教え込まれたゴリゴリの「サイエンス教の信者」だったように思います。

科学はまず何でも疑うことから始めます。

たとえば、

「重い物と軽い物を同じ高さから同時に落とすと、重い物の方が早く着地する」

とは本当なのかと疑問を呈し、そこから

「物体の落下速度は、その物体の重さによらず一定である」

という仮説を立て、ガリレオはピサの斜塔から大小2つの金属球を落として実験し、同時に落ちることを証明しました。

私の場合は、

「今この時代に神を信じる者がいるなんておかしい。いるはずがない」

とは思っていましたが、それでも教会に来続けていました。

なぜなら、そこに愛の人々がいて、暖かく私を迎えてくれたからです。

「神などいるはずがないのに、この人たちの暖かさはなんだろう?」

特に万年空きっ腹の男子大学生に

「これ、余計に作ったんだけど、食べてもらえませんか?」

とおいしい食べ物で胃袋攻撃(!)をされた日には、神の存在議論は脇に置いて、ありがたくその攻撃にさらされたものです(笑)。

神を信じない私を教会に引き止めたのは、愛です。

それは今も同じです。

科学的質問には答えられなくても、愛でもって応える。

論理的に神の存在を説明できなくても、愛されることだけを相手に提供する。

これが愛ある生きた教会の姿です。

そこには生けるキリストが共におられるからです。

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キリストが共におられることを信じ、今日も愛のわざに励んで参りましょう。

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