今日のみ言葉【No.1855】(2018年10月10日)「 神の慰め(1)」

ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。
(第2コリント1:3)

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「今すぐこの試練を取り去って下さい」

「この試練から私を取り除いて下さい」

という祈りほど聞かれない祈りはありません。

なぜなら、神は試練を通して私たちの内に忍耐を養い、神の深い慰めを得させようとしているからです。

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パウロがこの手紙を送ったコリントの教会は、いわば劣等生集団の教会でした。

教会の中には富者と貧者の区別があり、自分勝手に振る舞う人たちやパウロを公然と批判する者、信仰から離れようとする人々等、問題山積でした。

聖書学者たちの研究によると、パウロはコリント教会宛に計4通の手紙を送り、そのうちの2通は聖書に残ることなく失われていることがわかっています。

その1通は「涙の書簡」と呼ばれ、パウロがいかに激しい感情をもってコリント教会の人々を教え諭し、愛したかということが伺えます。

しかし、たとえそのように心血注いで愛情深く育てたとしても、裏切られることはあるのです。

そしてその自分の努力が誰にも認められず、誰もパウロの心情を理解せず、慰めはどこからも与えられなかったのです。

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パウロは挫折し、いじけてしまったでしょうか?

いいえ、彼は孤独感に満たされた中で、神からの慰めを得たことが記されています。

「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神」
(第2コリント1:3)

試練は一向に去らず、問題は未解決のままでも、その中で「神は確かに動いて下さっている」というかすかな痕跡を、テトスの到来や様々な知らせによって彼は認めることができました。

目の前の現実は変わっていなくても、祈りは聞かれている。

これが霊的現実の正しいとらえ方です。

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試練が取り去られないことに意味がある。

困難のただ中に置かれっ放しなのは、そこを通して何かを与えようとしておられる神の御心がある。

祈っても聞かれないのではなく、祈りは聞かれている。しかし神の定めた期間が過ぎるまで祈りの答は留められている。

このように理解すると、イエス様の次の言葉が素直に受け取れるようになります。

「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります」
(ヨハネ17:15)

私たちはこの世において一人ではないのです。

誰が離れたとしても、最後の最後にキリストが共にいて離れないでいてくださる。

これがわかることが神の慰めなのです。

このことを身をもって知らされる時、私たちの心の目は開かれます。

「ああ、現実に生きている神がおられる」

と、神の存在を受け入れられるのはその時なのです。

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問題が解決していなくても、神はあなたの祈りを聞いておられます。

神はあなたを見捨てているのではなく、あなたのそばにおられます。

試練を通してあなたの内側に磨かれる神の賜物が何であるか、それを見させていただく日々を送って参りましょう。

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