今日のみ言葉【No.1838】(2018年 9月18日)「 神の国のたとえ(1)」

あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。
(マルコ4:11)

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アメリカの神学校で勉強した時に、

「聖書の福音(ふくいん)とは何か」

という問いに

「キリストの十字架によって人の罪がゆるされ、天国に行けることです」

と答えたら、

「それは福音全体から見ればほんの一部です」

と教授から言われ、驚いたことがあります。

そして

「旧新約聖書の一貫した主題は神の国です。聖書の福音が目指しているのは神の国の建設と完成です」

と言われ、十字架と復活による天国行きが全てだと思っていた私は、目がくらむようなスケールの大きさに圧倒され、むしろ戸惑いのような感覚を覚えました。

イエス様は当時の無学な群衆に対して、この教授のようにストレートには語らず、たとえをもって「神の国」という新しい概念を説明なさいました。

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「神の国」に関して現代の人々も2つの誤解をしていることが多く見られます。

1つ目は、キリストの教えに感動した人々が頑張って働けばこの世が天国のように住みやすくなる。それが神の国完成だという考え方です。

もう一つは、神の国とは死後にやってくる世界だから現世とは無縁なのだ。あの世に行った時に入れる世界なのだ、という考え方です。

これら2つはいずれも誤りです。

なぜなら「神の国」とは「神の支配」ということだからです。

地上のどこかに天国のような場所があるわけではなく、キリストの福音を受け入れ、神を信じた者を通して神の力がこの世に及んでいくこと。

これが神の支配であり、そのようにして神の国はこの世に広がり、霊的な意味で領土が拡大していくのです。

「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」
(ルカ17:21-22)

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日本全国あちこちの教会や集会に迎えていただく機会がありますが、行ってつくづく思うのは、

「教会は建物ではないなあ」

ということです。

教会とはイエス・キリストを信じる活きた信仰者の群れです。

会堂という建築物ではありません。

そこに集まった人たちが教会であり、そこが神の国なのです。

共に食事をする時にそれが一番よく現れるように思います。

お互いが用意した食べ物を持ち寄り、共にいただく時、

「○○さんが作ったカレーは美味しいねえ」

「△△さんの漬物は天下一品だ」

などと言いながら、お互いをいたわり、罪ゆるされた者同士がキリストから受けた愛をもって周りの人を愛する姿こそ、最も神の国が現れる時なのではないかと思います。

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今日も神の支配にゆだね、神の国の広がりを見る一日として参りましょう。

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