今日のみ言葉【No.1820】(2018年 8月27日)「 救い(2)」

それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
(ローマ3:22)

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「あー、助かったー!」

これが救いを実感した言葉です。

ギリギリで電車に間に合って乗った瞬間後ろのドアが閉まった時とか、お金が入金されてこれで支払いができるとわかった瞬間、また、ウルトラマンがやって来て怪獣をやっつけてくれると知った時…!

神学的な救いの定義は分からずとも、この日常的実感を判断の材料にしていけば、そうはそうは道を誤ることはありません。

救いは与えられるものなのです。

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救いとは神と人間との関係が正しいものにされることです。

旧約聖書創世記のエデンの園のストーリーは、人は神の意志に反する方を選び、そこから関係がギクシャクしだしたどころか、全く切れてしまったことを伝えています。

親子関係が破綻したら、子は独力で生きようとします。

親からの干渉がなく、自分の意志で自由に何でも選べる人生には爽快感が伴います。

しかし、関係が切れているということは、子として当然与えられるはずの支援や援助・供給がストップしていることですから、子は今ある貧弱な力のみで世の試練に立ち向かわなければなりません。

それが現代に至るまでの人類の悲劇の歴史の原因だと聖書は語ります。

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では救われるために、人は何をすることができるのでしょう?

答は

「何もできません」

です。

神から離れた人間は自分の力で自分を救うことはできない。

これがキリスト教のメッセージの前提です。

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先程の例で言うとこうです。

窮地に陥った子が困り果て、恥を忍んで親に頭を下げて、

「お父さん、機嫌を直して下さい。今困ってるんで、助けてもらえませんか」

と言っても、とりあってもらえません。

「あの時はすいませんでした。どうぞゆるして下さい」

と謝ってもだめです。

なぜなら、親(神)と子(人間)との間に、「罪」という障害物があるからです。

罪は償わなければ消えることはありません。

その代償を支払ってからのみ、親は子に関わることができます。

ところが、

「罪の支払う報酬は死である」
(ローマ6:23)

とあるように、罪は命でもってしか償えません。

生きようとしているのに、罪のために命が取られてしまったのでは意味がありません。

「しょうがない。自分でやるしかない」

これが神無き人間が生きる時の結論です。

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しかし、神は愛にあふれる親なので、本当は人間を助けたくて助けたくてしょうがないのです。

聖書は、そこで神が行動を起こしたと言っています。

罪の問題を解決するために救い主を遣わされたのです。

そして今から二千年前、「救われる」という道が開かれたのです。

(以下、次回に続きます)

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