今日のみ言葉【No.1779】(2018年 6月15日)「 花婿が一緒にいる」

婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるであろうか。
(マルコ2:19)

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韓国での教会研修に「断食祈祷」なるプログラムがありました。

食を取らないで祈りに集中し、肉の働きを殺して霊の働きに専念するための訓練です。

断食の期間はたった1日半だったのですが、初めてのことで体が悲鳴をあげ、大変つらい思いをしたことを覚えています。

その時の祈りは

「早く食べさせて下さい」

「倒れないで体がもちますように」

というもので、それはそれは真剣に祈り、後は何を祈ったのか覚えていません!

しかし、食べないことによって命の限界、すなわち死が身近に迫っていると感じるからでしょう、

「霊的事柄に敏感になる」

「神の御心が今までよりわかるようになる」

ということは確かだと思います。

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イエス・キリスト当時のユダヤでは、人々は年2回(贖いの日とエルサレム滅亡記念日)の断食を行っていました。

ところが、律法に厳格であることを誇るパリサイ人は週2回の断食を行っていました。

ですから彼らはイエス様に対して

「あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」
(マルコ2:18)

と言って非難したのです。

断食祈祷でも徹夜祈祷でも、また宗教的儀式一般で言えることは、制度化してしまう危険性です。

やっているからそれでよい、ということになってしまい、そのことの本来の意味が薄れ、やがて全く別のものに取り違えられてしまうのです。

現代のクリスチャンなら、

「私は毎週日曜日、休まず教会の礼拝に行っています」

ということです。

礼拝を「厳守」してしまう危険性です。

本来、礼拝を行う安息日は神を見上げる日として制定されました。

ですから礼拝では、労働を休止して神と出会える喜び、そして罪赦された解放の喜びをもって参加すべきなのです。

それが渋い顔をして、礼拝に出ることが先決だという態度でいるということは、私たちがいつの間にか「パリサイ人化」しているということになります。

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さて、断食の本来の目的は神の啓示をより多く、より深く受けることです。

ところがパリサイ人にとっての断食は、彼らが他とは違う「聖なる」「きよめられた」人物であるということを証明する手段となっていました。

この彼らがずれてしまった点をイエス様はズバリと突き、きれいに切り返されたのが今日の聖句です。

「婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるであろうか」
(マルコ2:19)

花婿とはイエス・キリストのことで、婚礼の客とは弟子たちのことです。

断食をするのは神の御心を知るためです。

しかし現在、目の前にイエス・キリストという神の啓示そのものの存在があり、キリストの人格を通して私たちは神の御心を知るのですから、何も断食などする必要はありません。

イエス・キリストと共にいる限り、神を知るための断食は必要ないということです。

必要なことは、私たちが悔い改め、謙遜な心でキリストの言葉を受け入れることです。

もし今、私が断食祈祷の必要性を問われたら、こう答えるでしょう。

「断食はしても構いませんよ。私も1週間の断食祈祷をやりました。いい霊的訓練になります。やれるなら大いにどうぞ」

大切なことは、努力精進、犠牲を払って花婿を待つことではなく、な〜んだ、花婿は目の前にいたのではないか、と気づくことです。

そして喜んで祈り、礼拝することです。

新約聖書の新しい時代とはそのような生き方をする時代なのです。

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すでに祝福が与えられ、用意されている今日一日の道のりを、神と共に喜んで歩んで参りましょう。

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