今日のみ言葉【No.1764】(2018年 5月29日)「 キリストの圧倒的愛」

しかし、彼は出て行って、自分の身に起ったことを盛んに語り、また言いひろめはじめたので、イエスはもはや表立っては町に、はいることができなくなり、外の寂しい所にとどまっておられた。
(マルコ1:45)

——————

牛丼の吉野家のコンセプトは「うまい、やすい、はやい」だそうです。

なるほど、これを最優先として力を集中させるお店なら人は集まってくるはずです。

宗教の「うまい、やすい、はやい」に該当するのは「貧・病・苦」の解決です。

これを優先する宗教団体は流行ります。

キリスト教の場合はどうでしょうか?

答えはYesでもありNoでもあります。

-*-*-*-*-*-*-

マルコ福音書1章40〜45節には、らい病人の癒しの記事があります。

イエス様はその人を深くあわれみ、

「そうしてあげよう、きよくなれ」
(マルコ1:41)

と言って癒やしてあげました。

まさに「貧・病・苦」の解決です。

しかし、イエス様はそのためにこの世に来られたのではありません。

「ひとりのらい病人が、イエスのところに願いにきて、ひざまずいて言った、『みこころでしたら、きよめていただけるのですが』」
(マルコ1:40)

とあるように、人がイエス・キリストのところへ来て、神の前でひざまずくことが目的なのです。

つまり、イエス様は人が神へ帰ることができるようにこの世に来られ、罪人が悔い改めて神に従って生きるようになることが優先順位の一番目だったのです。

-*-*-*-*-*-*-

そうすると、このらい病人に対して

「何も人に話さないように、注意しなさい」
(マルコ1:44)

と、イエス様にしては珍しく弱者に対して厳しい態度を取った理由が理解できます。

ところが、このらい病人は癒されたことがあまりにも嬉しかったのでしょう、イエス様からきびしく戒められていたのを忘れてしまい、

「彼は出て行って、自分の身に起ったことを盛んに語り、また言いひろめはじめた」
(マルコ1:45)

としてしまいました。

残念ながら、これはイエス様の伝道の妨げとなりました。

キリストの本来の使命を人々に誤解させ、自分の目的のためにイエス様を利用しようとする思いを周囲の人々に与えるという結果になってしまったのです。

-*-*-*-*-*-*-

こういう人はムチで打たなければならないのではないでしょうか?

天から雷を下すとか、らい病の癒しを取り消すとかの罰を与えるのが必要なのではないでしょうか?

イエス様の取った態度はこうでした。

「外の寂しい所にとどまっておられた」
(マルコ1:45)

イエス様は彼に何もなさいません。

手も足も出なかったからではありません。

イエス様はこの人のためにも十字架上で死ぬ決心を持っておられたからです。

「もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう」
(ローマ5:10)

これがキリストの圧倒的愛です。

やるな、と言われてもやってしまう人間。

せよ、と言われても忘れている人間。

良かれと思ってやったことが、かえって逆効果になっていることを知らずにのうのうと生きている…。

私たちとはそういう存在です。

その私たちが、そのままで生かされている。

イエス様は、らい病人に対する愛と同じ愛をもって私たちを愛し、どんな存在でも良いからそのままの姿で神に帰って来なさいと今日も呼びかけておられるのです。

-*-*-*-*-*-*-

キリストの圧倒的愛の中にいる自分を確認する一日として参りましょう。

-*-*-*-*-*-*-

※御言葉メールの申込、停止は全て自動でなされます。下記メールアドレスに件名も本文も無い空メールを送信して下さい。

 ●御言葉メールをお申し込みになりたい方は
   → reg@mikotoba.org

 ●御言葉メールを停止したい方は
   → del@mikotoba.org