今日のみ言葉【No.1737】(2018年 4月23日)「 放蕩息子のたとえ話(3)」
彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。
(ルカ15:16)
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昨年アメリカに行った時、デルタ航空を利用しました。
エコノミークラスでも機内食は3種類選べます。
ビーフ、チキン、そしてもうひとつはベジタリアンだったのにはちょっと驚きました。
これがファーストクラスなら宗教によって違ったメニューをリクエストすることができます。
ユダヤ人は豚肉を食べません。旧約聖書に豚は汚れた動物と記されているからです。
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放蕩息子のたとえ話ほど神から離れた人間の状態を印象的に語るものはありません。
弟息子は無一文になってしまいました。
彼が努力して得た財産がなくなったのではありません。
父からタダでもらった財産を
「何もかも浪費してしまった」
(ルカ15:14)
のです。
神から与えられた健康や才能や自然環境を思うがままに使い尽くし、かえってこの世界を住みにくくしている現在の人類の姿を見るようです。
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やがて弟息子がいた地方に飢饉がやって来ました。
彼は飢え、働き口を求めます。
イエス・キリストの時代、この話を聞いた人々にとって何より痛烈だったのは、
「その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであった」
(ルカ15:15-16)
という部分です。
豚はユダヤ人にとって汚れた動物。
彼らが忌み嫌う動物を扱わなければならないことだけでも大変なのに、その豚が食べる飼料で腹を満たしたいと思うほどの落ちぶれた状況に弟息子は陥りました。
そしてもうひとつ、
「何もくれる人はなかった」
(ルカ15:16)
という一節によって、周囲との人間関係も破綻していたことが表されています。
経済的にも精神的にも社会的にも、彼はどん底まで来たのです。
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途中でクルッと方向転換し、損失はもう取り返せないものとして見極められる人は、被害を最小限にとどめ、やがて失ったもの以上のものを得ていきますが、そんな人は稀です。
どん底まで行かないと方向転換できない人がほとんどです。
放蕩息子が本心に立ちかえって父の家に戻ろうと決心できたのはなぜでしょうか?
彼の脳裏にひらめいた情景は
「父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいる」
(ルカ15:17)
ということでした。
雇い人がそうなら、実の息子の場合はそれ以上の食物が豊富に与えられていたはずです。
つまり、弟息子は父親との間の過去の愛の記憶を思い起こしたのです。
「私は愛されていたのだ」
これが起爆剤となって、彼は今までとは逆方向に戻り始めたのです。
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悔い改めは愛によって起こされます。
神の愛を思い起こす一日として参りましょう。
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