今日のみ言葉【No.1732】(2018年 4月17日)「 下りてくる恵み」
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
(マルコ1:9)
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アメリカ大リーグで大谷翔平選手が「メジャーの洗礼を受けた」そうです。
どうやら最初のホームランで同僚から受けた「サイレント・トリートメント」という意図的無視の後で喜んであげる祝福のされ方のことを言うようです。
他にも「社会人としての洗礼を受けた」等の言い方があります。
初めての場所で当然体験しなければならないこと、あるいは、現実の厳しさを味わうことが「洗礼」だという使われ方をします。
本家本元の聖書が言う洗礼とはそのようなものではなく、罪の赦しを指し示す非常に大事なものです。
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バプテスマのヨハネが授けた水によるバプテスマは、罪の悔い改めのしるしとしてでした。
さて、イエス・キリストは神の子ですから罪を犯したことがありません。
「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった」(口語訳)
「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした」(新改訳)
(第1ペテロ2:22)
しかし今日の聖句では
「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった」
(マルコ1:9)
とあります。
罪のない者が罪の悔い改めのしるしとしての洗礼を受けるとはどういうことなのでしょうか。
実はここにキリスト理解のための突破口があります。
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それは、イエス・キリストが罪人の私たちの位置にまで下って来られたということです。
つまり、私たちと同じ所に来られ、同じ風景を見、同じ思いを味わい、同じ立場で生きたということです。
だからこそ
「十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである」
(第1ペテロ2:24)
ということが可能なのです。
そして、
「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである」
(ヘブル4:15)
とあるように、人間の弱さを知り、思い煩いの何たるかを同じように体験されたからこそ、私たちを
「そんなことでどうする!」
と上から目線の見下し方で叱咤激励するのではなく、ありのままの姿を愛し、受け入れて下さるのです。
このイエス・キリストによる罪の赦しを信じ、この神の愛に自分の全人格をゆだねて生きてみることが、すなわち信仰生活なのです。
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私の修行時代、どうしても忘れられない人物がいます。
名前も居場所も今何をしているのかも分かりません。
その当時の教会は1階部分が駐車場。階段を上って2階に玄関、そして会堂という造りでした。
その人はある日突然教会の前に現れ、階段の下から、上の玄関掃除をしている私を挑発してきました。
「あなた、偽善者ですね」
そう言ってニヤリと笑い、私の反応を待つのです。
私は
「どうぞ上まで上がってきて下さい。お話お聞きしますから」
しかしその人は一向に上がってくる気配はなく、下でブツブツ言い、まもなく去って行かれました。
そんなことが2週間ほど続いていたある日、彼が階段の中途まで上がってきて、そこに腰を下ろし、振り向きざま、上目遣いで私にいつものフレーズを言ってきました。
「あなた、偽善者ですね」
はい、確かに私は偽善者です。
言われた瞬間、ムッと来た怒りを悟られまいとして隠し、親切そうな笑顔で装いましたから…。
「よし、この人と同じ場所に座ってやれ!そしてじっくり説教してやろう」
と私は隠れた復讐心を抱いて思案しましたが、そのときはちょうど雨上がりで、階段は濡れています。
ここが勝負です。
どうやら神様は私の我力を砕くためにこの場を用意なさったようだと直感しました。
階段を降り、彼のいる段に座りました。
まもなくお尻のあたりがジワっとしみて冷たくなるのを感じました。
構わずに
「今日は教会に来て下ってありがとうございました」
と言い、しばらく、空がきれいだ、花が美しい、空気がうまい、等の話をしたのだと思います。
彼はスッと立って、
「もう来ない」
と言い、走り去って行ってしまいました。
私はあっけにとられて彼の後ろ姿を見るだけでした。
今でもどこの誰だかは分かりません。
当時はそこまで考えが及びませんでしたが、おそらく心を病み、一時退院して外泊期間中だった方なのではないかと思われます。
しかし私にとっては、その人のいるところまで降りるとはこういうことなのだよ、と教えてくれた天使でした。
私は今でもあの方は神が私に遣わした天使だったと思っています。
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私たちのいるところまで降りてきてくださるキリストの恵みを味わう一日として参りましょう。
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