今日のみ言葉【No.1719】(2018年 4月 2日)「 永遠を思う思い」

神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。
(伝道の書3:11)

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大相撲ジョークから。

相撲は競技という面だけでなく日本古来の神事と深く関わる部分があります。

しかし、ある親方は「神頼みなどもってのほか」と言ってはばからず、関取たちには「稽古して自分の努力で実力を養え!」と檄を飛ばしていました。

ところで、その部屋の横綱がどうしても勝ちたくて、場所前、密かに神社に行って全勝優勝祈願をしていたことがばれてしまいました。

親方に呼ばれた横綱が神妙な顔をしていると、親方は怒るどころか悲しい顔をしています。

そして

「お前は15日間全て勝って優勝したいとお参りに行ったそうだが、それは無理だ。せいぜい12勝止まりだ」

と言うので、横綱が

「親方、なんで勝ち星まで正確に言えるのですか?」

と尋ねると、親方は厳かにこう答えました。

「お前はすでに参拝(さんぱい)した…」

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人は自分の限界にさらされたり、大きな仕事のために身も心も打ち込む時、

「本当にできるのか?」「続けていけるのか?」

と自分の力と存在の危うさに気づき、ふと神に向かって手を合わせたくなるものです。

かの剣豪宮本武蔵が一乗寺下り松での決闘の前、「勝たせたまえ。今日こそは武蔵が一生の大事」と拝殿の鰐口へまで手を触れて祈りそうになったというエピソードを知ると、なるほどとうなづけます。

人の心には無意識に神を求める宗教心というものがあるのです。

そのことを聖書はこう語っています。

「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」
(伝道の書3:11)

人がその存在を知っていようがいまいが、創造主なる神は存在し、その御方が人間の心に「永遠を思う思い」を与えられたというのです。

そう言えば、「死んだ先どうなるのだろうか?」と悩んでいる様子の犬や猫を見たことがありません。

人間だけが死について考えることができ、そして死の向こう側の永遠の世界の有無に思いを馳せることができるのです。

ですから、自分のことであれ他人のことであれ、死が身近に感じられる時とは神との出会いのチャンスの時なのです。

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かつて結核という病気が人に死の存在を見せつけた時代がありましたが、ついこの間までガンがその位置を占めていました。

昭和の時代、ガンは本人に告知されないままのケースが多かったようです。

医師は患者に病名と状態を知らせる前、

(1)明確な価値観や人生観、宗教観を持っている人か

(2)患者を支える家族や周囲の存在があるか

を探り、大丈夫だと判断した場合だけ告知するという慎重な手順を踏んでいたそうです。

「死」というものをいきなり目の前に出された時のショックは大きく、その後の治療の妨げになることを医師は避けたのです。

しかし、21世紀の今、ガンは告知されるのが当たり前の時代となりました。

まずそれは医療技術の進歩によって生存の確率が高くなったからです。

次に、死は伏せておくべきものではなく誰にでもやって来るものだから堂々と話して良いのだ、と広く日本人の考え方が変わったからです。

そして、その命をどう輝かせるかの方に焦点が移ってきたからなのでしょう。

このように変遷してきた日本の社会を見て行く時に、これからの時代、人々の目は「死後の永遠の世界」に焦点が合わせられることになるでしょう。

なぜなら

「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」
(伝道の書3:11)

からです。

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永遠を思う思いを持ち、今日の確かな一歩を踏みだして参りましょう。

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