今日のみ言葉【No.1707】(2018年 2月19日)「 神の姿が現れる時」

自分の家を治めることも心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか。
(第1テモテ3:5)

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ある時、

「この教会が本物かどうか確かめに来た」

とおっしゃる男の人が来て、つかつかと男子トイレの方に向かわれました。

私に「来い」と言うのでそのままついていくと、小便器のふたを素手で取り、

「この裏を見るとわかるんだ」

と言ってニヤリと笑います。

私はドキリ!

「トイレ掃除係の人、そこまでやっているのかなぁ…」

そしてクルリと裏返すと、汚れも黄ばみもない真っ白い陶器の部分が現れました。

その人は一瞬の間を置いて、

「うーん、この教会は本物だな…」

と言って、手を洗ってからお帰りになりました。

教会には時々このような神の使いがやってこられます。

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人は、言っていることではなく、やっていることを見ます。

政治家がどんなに素晴らしい公約やマニフェストを声高に叫んでも、有権者は本当にそれができる力があるのか、普段の実行力を見て判断し、投票所に足を運ぶのと同じです。

ですから私が一番心がけるのは、隣近所への挨拶と、教会周りの草むしりです。

教会の看板や掲示板に書かれた聖書の言葉に魅かれて来る方もいらっしゃいますが、多くの人々は教会の人が何をしているか、その姿を見て判断するものです。

外見のみを飾ればいいというものではありませんが、内側の思いが外側にあふれ出るのです。

一般の方々はその自然にあふれ出た本物を見て神を知るのです。

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今までの実例です。

教会の玄関に鉢植えの花をたくさん持ってきて下さるメンバーがいらっしゃいます。

ご近所の方々は

「教会はいつ来ても花が咲いていて綺麗ですね」

と言って笑顔で通り過ぎて行かれます。

ある時は

「教会から讃美歌が聞こえてきて、あれは本当にいいですねえ」

と言われます。

視野狭窄となり、視力が大分落ちた奥様の手をご主人が引いて、教会までゆっくりと手をつなぎながら歩いてくる光景があります。

いずれも私が全く意図しない所で、人々が神の姿を見ている例です。

自分の生活を精一杯行う時、神様は人々の目に現れるのです。

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今日の一日も、精一杯神の前で生きる日として参りましょう。

その姿に神が現れてくださいます。

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