今日のみ言葉【No.692】(2013年11月 9日)
カルミの子はアカル。アカルは奉納物について罪を犯し、イスラエルを悩ました者である。
(歴代志上2:7)
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アカルという人物は、ヨシュア記7章に出てくるアカンと同一人物です。
彼は神への奉納物としなければならないはずのものを隠し、自分のものとしようとしました。
盗みです。
そのたった一つの罪をも神は見逃さず、次の戦いではイスラエル側に多くの死傷者が出ました。
自分たちよりも弱いはずの敵になぜ負けたか。
その後のいきさつはヨシュア記7章に譲りますが、アカンとその一族はアコルの谷で死の刑罰を受け、滅んでしまいます。
これはイスラエル初期の歴史において、痛ましくも大きな経験でした。
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一つの罪をも見逃されず、他にどんな良いことをしていたとしても、その一つの罪の償いを求める神。
これが聖書に啓示された神の厳しい一面です。
と同時に、神は限りない愛の方でもあります。
「神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。」
(ローマ11:22)
アカンに対するこの厳しい処置は、神の子イエス・キリストが全て十字架上で受けて下さいました。
そのことを信じ、自分の罪の問題が解決されたと信じる者には、神の慈愛が向けられるのです。
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ただしこれは、
「反省したらゆるしてもらえる」
ではないことを肝に銘じて下さい。
では何でしょう?
「ゆるされているから反省できる」
のが真実です。
最初に謝罪や反省を求められれば、人間の自然な感情として、
「罰を逃れたい」
「罰はあっても少しでも軽いものにしたい」
という心理が働き、これ以上ないほどの綺麗な反省文を作る方向に向かいます。
しかし内面は何も変わりません。
うわべだけをツルツルに磨いて、中身は、
「私だけ見つかるなんてアンラッキーだった」
「加害者とされている私こそ被害者だ」
という思いが見え隠れするからこそ、最近よくある「謝罪会見」が釈然としないものに見えてしまうのです。
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反省する前に
「もうゆるされている。感謝なんだ。」
という方向に思いを定めましょう。
そこから本当の反省や謝罪というものが生まれてくるのです。
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神の赦しの恵みを存分に味わう一日でありますように…。
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