今日のみ言葉【No.1688】(2018年 1月19日)「 今日を生きる」
あなたがたは、ゆるぐことがなく、しっかりと信仰にふみとどまり、すでに聞いている福音の望みから移り行くことのないようにすべきである。
(コロサイ1:23)
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読者の方から次のようなお便りをいただきました。
「祖母はとても温厚な性格で、戦争時代嫁勤めをして苦労しました。きっと神様は天に連れて行ってくださったんではないかとおもってはいるのですが…」
キリストの福音を聞かないで亡くなった人々はどうなるのだろうかと心配になられたのです。
信仰による救いを語るときに避けられない事柄です。
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キリストの十字架による救いは、信じるだけで誰でも救われるという広き門です。
しかしそれは民主党政権時代に高速道路が無料とされた期間があったように、特別なものです。
ですから、自力で救いを得ようとする人間の努力には全てダメ出しがなされます。
・気持ちがきよいだけではダメ
・道徳的生き方をしていてもダメ
・善行を積んでもダメ
神の基準を到底満たすことはできないからです。
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そうすると、キリストを信じないで亡くなった人々は死後みんな自動的に地獄行きになるのか…、という考えが出てきます。
これに関しては様々な信仰の立場があったり、細かいところでの違いがあるでしょう。
私が皆さんに提示できる答は次の通りです。
(1)生前のその人なりの善悪の基準に従って裁かれます
パウロはこう記しています。
「彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである」
(ローマ2:15)
つまり、たとえ聖書の基準を知らなくとも、その人なりの基準があり、良心があるのですから、神はそれに従って裁かれるということです。
パウロは次の16節で
「そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう」
(ローマ2:16)
と書いています。
「わたしの福音」とはパウロだけに神が明かされた奥義のことを言います。
今明かしてしまっては益にならないので、しかるべき時が来るまで伏せられている神の真理です。
キリストの福音を知らず、聖書の存在も知らないで死んだ人々に関しては、まだ私たちに明かされていない御心があるということです。
それはアッと驚くようなことかも知れません。
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これに関しては、
(2)天国では誰もが納得できる公正な裁きを神はなされる
ということを覚えたいものです。
神は完全な方ですから、誰も異論を挟めない完全な裁きをなさいます。
天国で
「えー、そんなことってある?違うんじゃないの?」
と神様に対して不平不満を持つようなことはあり得ません。
全員が
「そういうことだったのか」
と納得し、平安を持って過ごすことができる場所です。
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そして3つ目は
(3)死者のことにはもう手が届かないのだから、今生きている私たちが出来ることに全力を注ぐ
ということです。
過去に戻ることはできません。
私たちが動かせるのは今日一日のことのみです。
「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」
(マタイ6:34)
死んでしまった人のことは神様にお任せしなさい、と言われても、後ろ髪を引かれる思いがしてなかなかできないものです。
しかしそれはどこかで「けじめ」をつけなければなりません。
そして、今生きている人のために自分が何かできることをやる。
それが今日出会う人に福音を伝え、天国への橋渡しとなるならば最高なのではないでしょうか。
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救われた恵みの中で、今日を生き生きと過ごし、キリストの福音を生活全体で表す一日として参りましょう。
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