今日のみ言葉【No.1542】(2017年 6月13日) 085 「ピラト」(5)

ピラトがこの言葉を聞いたとき、ますますおそれ、もう一度官邸にはいってイエスに言った、「あなたは、もともと、どこからきたのか」。しかし、イエスはなんの答もなさらなかった。
(ヨハネ19:8〜9)

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「私は上を見て仕事をしている。上が動かなければ私は動けません」

随分立派なクリスチャンの言葉のように聞こえますが、これは私の知人の公務員が言った言葉です。

中間管理職として名刺の名前の上に肩書がついた頃、

「そろそろ自分の思い通りの仕事が出来るようになったんじゃないか?」

と私が尋ねた時、「丸山、お前、そんなもんじゃないよ」とでも言いたげな顔で彼は上記の言葉を言ったのでした。

自分の分をわきまえ、キッチリ仕事をする彼は上司の信頼を得、その地位にふさわしい実績を積み上げています。

「上」という言葉が表す対象は違っていましたが、ピラトとイエス様が見ていた「上」の違いが対照的な結果を生み出すこととなりました。

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ピラトが見ていた「上」はローマ皇帝でした。

彼にとってはその評価が全てです。

賢いユダヤ人たちはそれを見抜き、

「もしこの人を許したなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王とするものはすべて、カイザルにそむく者です」
(ヨハネ19:12)

と言ってピラトの弱みにつけこみました。

彼は降格処分を恐れて右往左往し、遂に不本意ながら不正の裁判の座につくことになります。

一方、イエス・キリストの「上」とは父なる神のことです。

天地万物を造られ、全世界を支配され、永遠の行き先まで決める力のある御方です。

イエス様は小羊のような従順さで父なる神に従われました。

その神の権威を知るがゆえに、神の権威でなされないことに対しては何の恐れも抱かれなかったのです。

「あなたは、上から賜わるのでなければ、わたしに対してなんの権威もない」
(ヨハネ19:11)

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私たちは今日どこを見ながら動くべきでしょうか?

ピラトの記事を読んで明らかなように、模範解答は真の「上」である神を見て生きることです。

それは教会学校に来る小学生でも導き出せる結論です。

しかしながら、分かったつもりでいて、実はそうできていないのが現実の私たちの姿です。

では、右往左往するピラトに対してイエス様はどのようにかかわられたのでしょうか?

「いい加減にしろ!今すぐ神を見上げよ!」

と叱りつけられたのでしょうか?

あるいは、やさしく丁寧に彼を諭されたのでしょうか?

ピラトはイエス様の平穏な姿に

「あなたは、もともと、どこからきたのか」
(ヨハネ19:9)

と、そう出来る権威の出どころを尋ねました。

キリストの取った態度はこうです。

「しかし、イエスはなんの答もなさらなかった」
(ヨハネ19:9)

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私たちは右往左往しなければならないのです。

そして神の沈黙の時間を体験しなければならないのです。

イエス様が「なんの答もなさらなかった」時間というのは、ピラトが頼っていたものが実は何の力も持っていなかったのだと気づくために必要な時間でした。

私たちが真の「上」である神に目を向けるためには、今自分が思っている「上」に見切りをつけなければなりません。

そのためには、今自分が握っているものがどんなに空しいものであるかを身に沁みて知る必要があります。

キリストは愛の方ですから、ピラトに対しても大いなる愛を持っておられたはずです。

ピラトが握っているものを手放し、真に頼れる神を選ぶためには

「しかし、イエスはなんの答もなさらなかった」
(ヨハネ19:9)

という沈黙の愛の時間が必要だったのです。

そしてそれを今日、私たちは祈りの中で、あるいは試練の中で、

「神は何も語っては下さらなかった…」

という空しい思いを味わうことによって体験するのかもしれません。

しかしそれは私たちが神に見放されているのではなく、私たちが空しいものを見放すためにある時間なのです。

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天を見上げ、真の「上」なる神に目を向け、御心に従う平安の道を歩む今日一日とさせていただきましょう。

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