今日のみ言葉【No.1507】(2017年 4月 1日) 074 「ラザロのよみがえり」(6)
イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、
(ヨハネ11:33)
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ニューヨークに行った時、本場ブロードウェイのミュージカルを見てきました。
1作目の「ミス・サイゴン」はストーリーもわかり、演じる人たちの真剣さに感動し、本気でスタンディングオベーション(立って拍手をすること)してきました。
ところが、次の劇場での「キャッツ」はよくわかりませんでした。
歌の素晴らしさはわかるのですが、ダンスや奇抜な衣装とボディペインティング等に関しては、一緒に行った他の人たちは「メッチャ感動!」の一言なのに、私は「?」です。
どうやら私は言語的方面の脳は発達しているのですが、非言語的方面の脳は未開発のままのようです。
イエス様は神の子ですから、知性も感性も意志も全てに渡って完璧な御方です。
感情豊かなマリヤの前で、イエス様も感情をあらわになさり、同じ人間として生きている姿を表されました。
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イエス様は、マリヤや周りの人たちが泣いている姿を見て、「激しく感動」されました。
これは「霊的なうめき」とも訳される言葉で、非常に激しい感情がほとばしり出る様子を表す言葉です。
またこれは聖霊の「切なるうめき」と同じ言葉です。
「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。」
(ローマ8:26)
「うー、うー」と言葉にならない、か細い声を出すのが聖霊の「切なるうめき」ではなく、それはイエス様が体中を震わせ、しゃくりあげるようにして「激しく感動」されたのと同じものなのです。
聖霊が弱い私たちを助けようとして、父なる神に執り成しをして下さる時は、
「えーっと、丸山さんに関しましては○○のことをよろしくお願いします。そして次の田中さんには…」
などと静かに淡々と事務的処理をしているのではありません。
「言葉にあらわせない切なるうめき」であり、「激しく感動し、また心を騒がせ」るのですから、それは音楽であり踊りのパフォーマンスのようなものであると私は思います。
数万人収容のスタジアムで、オーケストラと大合唱団の音楽に乗ってオペラやバレエやミュージカルが繰り広げられ、それがたった一人の私のための祈りであった…、というイメージです。
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さて、イエス様はなぜこのように激しく感情をあらわにされたのでしょう?
まずひとつに、死で全てのものが止められるという現実のただ中に飛び込んで生きておられたからです。
イエス・キリストは、遠く離れた安全地帯から
「ああ、あれは大変だな」
などと、傍観者のように私たちの生きている姿を眺めている御方ではありません。
私たちと一緒に現実を味わい、巻き込まれ、同じ出来事を体験されたのです。
そしてもうひとつは、死はあるべきではないものとして、死を取り払うためにこの世に来られた御方だからです。
私たちは死をどうしようもないものとして受け止めるしか方法がありません。
「誰でもいつかは死ぬんだからしょうがない」
「それでも長く生きた方ではないか」
と言って、慰め合いながら生きています。
しかし、イエス・キリストの目からすれば、死はあってはならないものであり、死とは対決し、滅ぼすべきものなのです。
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神は、そのひとり子イエス・キリストを十字架につけ、人間の死の原因となった罪をすべて清算して下さいました。
そして、キリストの十字架が自分の罪の赦しのためであったと信じる者全てに永遠の命を与えると約束されたのです。
その約束が本当のものであるという保証として、イエス・キリストは死後3日目に復活されました。
ですから、キリストを信じる者にとって、死はもはや恐れでも悲しみでもなく、永遠の天国への入口となったのです。
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イエス・キリストは、人間の罪の罰として下された死を、自らが十字架について身代わりに受けることによって滅ぼされました。
死の恐れにさらされる時、イエス・キリストのこの事実と聖霊の熱い執り成しがあることを思い起こし、命あふれる人生を生きて参りましょう。
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