今日のみ言葉【No.1505】(2017年 3月30日) 074 「ラザロのよみがえり」(4)

「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」
(ヨハネ11:25-26)

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クリスチャンだけが復活する、と思っている方はおられませんか?

それは誤解です。

聖書には、イエス・キリストを信じているいないにかかわらず、全ての人類が「一度復活せねばならない」ことが記されています。

ただし、クリスチャンの場合はイエス様が罪をすべて負って帳消しにして下さったので恵みの出来事となりますが、そうでない他の人にとっては裁きの恐ろしい場となります。

「また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。」
(黙示録20:12)

「海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。」
(黙示録20:13)

私たちは復活を特殊な出来事として捉えているかもしれませんが、神の世界では至極当たり前のことなのです。

イエス様はそのことをマルタに伝えようとなさり、マルタもそれに応じました。

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23節以降で、イエス様はマルタに語られ、彼女の心を死んだ後のよみがえりへと向けておられます。

「イエスはマルタに言われた、『あなたの兄弟はよみがえるであろう』。 」
(ヨハネ11:23)

マルタはこの言葉に対して、

「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」
(ヨハネ11:24)

と応じ、尊敬を持ってイエス様に接し、また聖書のことをよく勉強していることを表しています。

しかし、言葉にこそしませんが、彼女の心の半分には

「何を今さら…。遅すぎます。もう弟は死んでしまって、全ては終わったのです」

という投げやりな、そしてイエス様にその自分を包んでもらいたいという思いがあったのではないか、と私は思えてなりません。

それに一切左右されることなく、イエス様は死んだ者もご自分にあって生きると宣言されました。

そして、そのようないのちにあずかるためには、「わたしを信じる」ことが必要だと語られました。

「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」
(ヨハネ11:25-26)

この圧倒的存在感に、マルタの心のモヤモヤした部分は吹っ飛んでしまったようです。

「マルタはイエスに言った、『主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております』。」
(ヨハネ11:27)

イエス様を信じる者は、肉体的にずっと死なないで生き続けるというのではありません。

地上でイエス・キリストを信じる人の人生は、いのちの源である神様につながっているので、いつも生き生きとし、死という制限にもはや怯えることもなく、支配されることもない人生を歩むことができるのです。

マルタの心の中にあった、死という制限の垣根が取り払われました。

そこにおいて、彼女はラザロの死を受け入れることができたのだと思われます。

弟は死んでいて、もう会えない。いつになるか、あるのかもわからないよみがえりの時にまた会えるということをせめてもの慰めとして生きていこう、という彼女の以前の思いは消えてしまいました。

この世の人生と、肉体の死と、復活の時とが一直線につながったのです。

そしてこの後、彼女はラザロの復活の出来事を見るのです。

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イエス・キリストは、死後はもちろん、生きている今もいのちを与えられるお方です。

「自分は死んでいるなあ」と思うあなたこそ、今日、イエス様に命を与えていただきましょう。

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