今日のみ言葉【No.1498】(2017年 3月22日) 073 「生まれつきの盲人」(2)

本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。
(ヨハネ9:3)

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昨年(2016年)の9月14日、文部科学省から「不登校児童生徒への支援の在り方について」という通知が出されました。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/1375981.htm

そこに、不登校は「問題行動」ではない、と明記されています。

長くなりますが、基本的姿勢の(3)の部分を下記に引用します。

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不登校とは,多様な要因・背景により,結果として不登校状態になっているということであり,その行為を「問題行動」と判断してはならない。

不登校児童生徒が悪いという根強い偏見を払拭し,学校・家庭・社会が不登校児童生徒に寄り添い共感的理解と受容の姿勢を持つことが,児童生徒の自己肯定感を高めるためにも重要であり,周囲の大人との信頼関係を構築していく過程が社会性や人間性の伸長につながり,結果として児童生徒の社会的自立につながることが期待される。
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時代は変わりました。

学校に行かないのは問題だから直さなければならない、という考え方は葬り去られ、不登校を通して子供は人として成長し自立に向かう、という画期的判断です。

ヨハネ9章の「目が見えない」ということも同じです。

それは問題でも罪の結果でもなく、神の栄光が現れるためであるとイエス・キリストは明らかにしました。

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さて、目が不自由なため、見ることができず、見られていることもわからない彼でしたが、その分、耳の力は鋭くなっていたことでしょう。

彼に弟子たちの声が聞こえたかどうか定かではありませんが、聞こえていたとしても不思議ではありません。

その声とは、

「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」
(ヨハネ9:2)

という問いでした。

弟子たちの言葉は、当時の典型的な考え方を表しています。

病気や不幸は、罪の結果である、という考え方です。

ですから、「だれが罪を犯したためですか」とたずねたのです。

この弟子たちの態度は、全くの傍観者的態度で、当事者の立場に立っていない、思いやりに欠けるものでした。

もし、この盲人がそのことを聞いていたとしたら、どんな気持ちになるでしょうか。

また、私たちも、自分の人生について同じようなことを言われたとしたら、どのように感じることでしょうか。

しかし、イエス・キリストは誰が悪かったのかと「犯人探し」をなさいませんでした。

ただ神のみわざがこの人に現れるため、と、神のみこころと、この出来事の「意味」を見つめておられます。

「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」
(ヨハネ9:3)

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今日の聖句によって生き方がガラッと変わったと証しされる人がいます。

その方は若い時から社会福祉に関心があり、猛勉強と訓練の末、ついに念願の知的障害者施設に勤めることができました。

そこには、生まれながらに知的障害があり、身体にも重いハンディがある方々がおられます。

「何とかしてこの人たちを普通の身に戻せないか…」

このような考えで、彼は一生懸命努力しました。

マイナスからなんとかニュートラルへ、できればちょっとでもプラスの領域に引き上げたい。

つまり、この状態ではダメだから何とかして良くしたい、という考え方です。

ところが、初めて聖書にふれた彼は、このヨハネ9章3節の御言葉に本当に驚きました。

「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」
(ヨハネ9:3)

「2000年前に障害者をこのように見ていた人がいたとは!」

これが彼の率直な感想でした。

そして、自分は障害をマイナスと考えていたが、そうではなく、その上に神の栄光が現れるためにこの方々は生かされているのだ、という新たな思いが与えられました。

キリストの言葉によって変えられたのは彼自身でした。

まず仕事が楽になりました。

「何とかしてこの人をこれまで以上に良くしなければ」

という対決姿勢から、

「この人の上に働く神の栄光を見させていただこう」

という余裕のある態度へと変わっていったのです。

上司が変われば部下も変わります。

彼のゆとりが、その下で働く方々に伝わり、施設の職員全体に緩やかな雰囲気が流れるようになりました。

入居している方々はどうかといえば、知的能力が急激に向上していった…、となればそれは作り話です。

相変わらずそのままです。

しかし、生きていることを喜んでいる、それが表情や小さな仕草に現れている、ということは確かに見て取れます。

私は思います。

誰でもない、御言葉を聞いた彼の上に神の栄光が現れているのだ、と。

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「問題」と見える所に、神の素晴らしい御業を見ていく今日として参りましょう。

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