今日のみ言葉【No.1495】(2017年 3月17日) 072 「姦淫の場で捕らえられた女」(2)
「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」
(ヨハネ8:7)
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旧約聖書で知恵の言葉が集められた書を「箴言(しんげん)」と言います。
その中に、
「銀を試みるものはるつぼ、金を試みるものは炉、人の心を試みるものは主である。」
(箴言17:3)
という言葉があります。
銀や金は熱いるつぼや炉の中に入れられ、さらに純粋な価値あるものとなるように精錬されます。
神は時に「沈黙」を通して私たちを試されます。
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律法学者たちやパリサイ人たちの追求に対して、イエス様は何もお答えにならず、沈黙しておられました。
神は沈黙の中で人間に自分自身の本当の姿を教えます。
それは罪を人々の前で大っぴらに暴露するのではなく、
「愛は多くの罪をおおう」
(第1ペテロ4:8)
とあるように、人が自分で自分の姿を自覚するように、という意図を持ってなさるのです。
それがこの場でのイエス様の沈黙の意味であったと思われます。
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神の沈黙に出会うと、人は面食らいます。
求めても得られず、探しても見出さず、門をたたいても開けてもらえないからです。
矛盾に満ちた現実が目の前にあり、御言葉通りになると信じて祈っても、そうならない日々が続きます。
神はどこにいるのかと迷う時間が、これからも果てしなく続くように思います。
それが神の沈黙を体験中の人の状態です。
そこで自分の姿を振り返り、自分の罪を見出し、現実の捉え方、考え方・生き方を変える人は幸いです。
しかし、多くの人はそうしません。
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パリサイ人たちや律法学者たちは、問い続けました。
それはそうでしょう。自分たちはきちんと律法を守り、どこにも落ち度がない正しい存在だと思っているのですから、自分の生き方を変えることなど端(はな)から思ってもいません。
そこで、とうとう、イエス様は沈黙を破られ、身を起こして、一言だけ彼らに答えられました。
「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」
(ヨハネ8:7)
そしてまた沈黙を始められました。
「そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。」
(ヨハネ8:8)
イエス様の沈黙は、無視や拒絶ではなく、彼らに対する愛を無言の内に示していることなのです。
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さて、罪のない者だけが人を裁く権威を持っています。
しかし、人間の中に罪のない者などいるでしょうか。
「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」
(ヨハネ8:7)
というキリストの言葉を聞いて、年長者から去っていったと書かれてあります。
「これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き」
(ヨハネ8:9)
人は歳を重ねるほどにきよくなっていくというより、生きれば生きるほど罪を増し加えるものです。
キリストの無言の時間によって自分の内側を探られた人々は、その点を深く示されたのです。
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神の沈黙に出会う時は、私たちの内側が試され、更に素晴らしい魂へと神が成長させようとしている時です。
罪が示される時は、一つ一つ告白し、ゆるしを信じて、罪からのきよめを確信させていただきましょう。
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