今日のみ言葉【No.1449】(2017年 1月14日) 057 「十字架上の二人の犯罪人」(2)
お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない。
(ルカ23:41)
——————
死生学を日本に伝えた上智大学名誉教授アルフォンス・デーケン先生は、人の死への不安を4つ挙げています。
(1)未知なるものを前にしての不安
(2)人生を不完全なまま終えることへの不安
(3)自己の消滅への不安
(4)死後の審判や罰に対する不安
たとえば、日本人の三大死因である心臓病・脳梗塞・癌と宣告された場合、その治療や手術、退院後の生活という未知のものに対して不安を抱きます。
これら(1)(2)の不安は、先にこの病を経験された方々のお話を聞くことによって軽減されます。
しかし、(3)(4)の自己消滅するかどうかや死後の審判は、科学の領域外の宗教的問題です。
死というものを目の前に突き出された時から、人はこれらの課題に取り組まなければなりません。
そこでキリストの贖いがあること知った人の人生は、まさに救われた人生となっていきます。
-*-*-*-*-*-*-
さて、十字架上の二人の犯罪人はどうだったでしょうか?
そのうちの一人は、イエス様をののしり続け、死を前にしてどうすることもできない不安と絶望をぶつけ続けました。
ところが、もう一人の犯罪人は、十字架にかかっているイエス様の姿を見て、考えが変わりました。
それはイエス様の十字架上の七言の最初の言葉がきっかけであったことは確実です。
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」
(ルカ23:34)
隣にいるこの人は恨みつらみをぶつけることなく、自分を十字架につけた人々のためにとりなしの祈りをしているのです。
あいつのせいで、あのことがあったせいで、と、全てを人のせいにして苦しみを紛らわそうとしてきた彼にとって、キリストのこの言葉は全く未知の衝撃的言葉だったことでしょう。
今まで絶対に認めたくなかったことが、彼の心の中で自然に起こりました。
それは、
「誰のせいでもない。私だ」
という罪人たる自分の認識です。
「お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない。」
(ルカ23:41)
そして彼はこうイエス様に伝えました。
「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」
(ルカ23:42)
この方こそ伝え聞いていた救い主であることがわかったのです。
彼の中で、死後の審判も未知の不安も、全てが一掃されました。
そして、この方に一切をお任せしよう、と心が定まったのです。
死を目前にして、この男はイエス様を主と仰ぐ者に方向転換しました。
-*-*-*-*-*-*-
死の恐怖は、救い主と出会うチャンスとなります。
他者にキリストの言葉を蒔き続ける今日の一日となりますように…。
-*-*-*-*-*-*-
※御言葉メールの申込、停止は全て自動でなされます。下記メールアドレスに件名も本文も無い空メールを送信して下さい。
●御言葉メールをお申し込みになりたい方は
→ reg@mikotoba.org
●御言葉メールを停止したい方は
→ del@mikotoba.org
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません