今日のみ言葉【No.1436】(2016年12月14日) 052 「イエスを三度否んだペテロ」(3)

ペテロは、「にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、そして思いかえして泣きつづけた。
(マルコ14:72)

——————

「牧師の目が怖い」と言う方がおられます。

「あの先生に見つめられると、背中まで見られているような気がする」

そう言う人は、相当自分をお隠しになっておられる方のようです。

何の隠し事も無ければ、目を合わせても何の問題もなく、笑顔で挨拶をして終わりのはずなのです。

ペテロがイエス様から見つめられた時、彼はどう思ったのでしょう。

-*-*-*-*-*-*-

彼はゲッセマネの園に行く直前の最後の晩餐の席で大見得を切っていました。

「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」
(マタイ26:35)

それなのに、イエス様の逮捕後、ペテロは逃げ出していってしまいました。

罪責感にとらわれた彼は、イエス様が連れて行かれた大祭司カヤパ邸の中庭までひっそりと戻って来ますが、何をするでもなく、ただ火にあたっているだけの時間を過ごします。

すると、名も知れぬ女中さんから

「あなたもあのナザレ人イエスと一緒だった」
(マルコ14:67)

と言い当てられて震え上がり、

「わたしは知らない。あなたの言うことがなんの事か、わからない」
(マルコ14:68)

と言って、逃げ出していってしまいました。

彼はその時、3度、イエス様を知らないと言って否定します。

イエス様の預言の通りになったことを知り、また、本当の自分の姿を見せつけられ、

「ペテロは、『にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう』と言われたイエスの言葉を思い出し、そして思いかえして泣きつづけた。」
(マルコ14:72)

とあるように、泣き続けるしかありませんでした。

「俺は何ということをしちまったんだ!」

「もう取り返しがつかない…」

悔やんでも悔やみきれない時、人間ができることはただ泣くことだけです。

-*-*-*-*-*-*-

ペテロはよく失敗をした人です。

ガリラヤ湖上を歩いた時でも、途中で恐ろしくなり、溺れてしまいます。

彼は大祭司カヤパ邸の中庭で、同じように沈んでいくままでした。

しかし、ペテロに差し出されたイエス様の手が彼を水の中から引き上げたように、この時もペテロを引き上げるイエス様がおられました。

「主は振りむいてペテロを見つめられた。」
(ルカ22:61)

ここに、ペテロを代表とするあらゆる人を、ありのままの姿で受け入れ、赦すキリストの姿があります。

-*-*-*-*-*-*-

ここで

「主は振りむいてペテロを睨みつけた」

とは書いてありません。

「ペテロ!言った通りになっただろう。お前は一体何をやっているんだ!」

とイエス様が叱りつけられたのではありません。

ただし、もしイエス様からそういう怒りとお叱りの言葉を受けたとしたら、ペテロはまだ楽だったことでしょう。

自分が間違っていた、あの人に悪いことをしたと自覚している時、その相手の人から

「そんなことでいいと思っているのか!」
「土下座しろ!」

と散々責められ、罵詈雑言を浴びせかけられても、かえってそのほうが楽に感じるものなのです。

それは、

「罰を受けた」
「償いを果たした」
「これであの人は気が済んだ」

と感じることができ、お返しはちゃんとできた、と自分の心の中で清算ができるからです。

-*-*-*-*-*-*-

しかし一番つらいのは、スッパリとゆるされることです。

「どんなことだったの?ああ、そういうわけだったのね。もういいですよ」

と何の請求もされずにゆるされること。

これは非常に辛い体験です。

ゆるされると嬉しいはずなのですが、良心の呵責に苛まれ、「少しでも何とかしなきゃ…」と思っている時に、スパッと何事もなくゆるされることは、本当に辛いことなのです。

気持ちの持って行き様がないのです。いたたまれません。有難いのか辛いのか、もう、どうしていいかわからなくなります。ただ泣くしかありません。

ふりむいて見つめられたイエス様と目が合った時、ペテロはこのことが分かりました。

そして彼にできることは、泣き続けることだけだったのです。

-*-*-*-*-*-*-

「もうふりむかない」とは、過去に訣別をつけ、あきらめることを意味しますが、「主は振りむいてペテロを見つめられた」のです。

ここに、決してペテロのことを見捨てず、あきらめないイエス様の愛と強い意志が見て取れます。

そしてそれが、後にペテロを立ち直らせる土台となりました。

このイエス・キリストに出会う時、私たちの人生は、ペテロと同様、どこからでもやり直しができます。

ありのままのその私がゆるされ、神に受け入れられているからです。

「こんなことではダメだ。何とかしなきゃ!」と一生懸命自分をたたき、我力のみで進んでいくことが神を信じない生き方の典型です。

しかし、神を信じて生きるとは、ゆるしを信じる生き方です。

「このままでいいはずがない。しかし赦されている。じゃあ、ここからスタートしていこう」

ゆるしを信じて、今一度人生の立て直しをはかる生き方。

これが神を信じる生き方です。

決して自分を責めまくる生き方ではないのです。

ペテロがイエス様の眼差しに出会ってゆるしを体験し、その後の人生が大きく変えられていったように、私たちの人生にもイエス・キリストとの出会いが必ず用意されています。

今までがどうであったとしても、主は振り向いてあなたをゆるしの眼差しで見て下さるのです。

-*-*-*-*-*-*-

主を裏切ったペテロに対して、イエス様はこのようになさいました。

イエス・キリストは、人間のありのままの姿を受け入れ、先に赦しを差し出しているお方です。

この方と共に歩むことを選び、罪赦されていることを信じて、今日も一歩先に歩みを進めて参りましょう。

-*-*-*-*-*-*-

※御言葉メールの申込、停止は全て自動でなされます。下記メールアドレスに件名も本文も無い空メールを送信して下さい。

 ●御言葉メールをお申し込みになりたい方は
   → reg@mikotoba.org

 ●御言葉メールを停止したい方は
   → del@mikotoba.org