今日のみ言葉【No.1416】(2016年11月19日) 045 「銅貨2枚を入れた貧しいやもめ」(3)

そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。
(マルコ12:43-44)

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全国的なキリスト教の集会では、最後に献金のすすめの説教をする牧師が登場します。

その先生が語ると、会衆は心揺さぶられ、普段にもまして捧げようという気持ちが起こされるから不思議です。

なぜそうできるのか探ってみました。

わかりました。

その先生ご自身が捧げていらっしゃるからです。

物を与える。献金をする。時間を捧げる。

この世ではその犠牲を投資と呼び、出したもの以上のリターン(儲けや報酬)を得ようとします。

そのためには「海老で鯛を釣る」、つまり、元手や労力を最小にして利益は最大化しよう、と人は頑張るわけです。

しかし、捧げて生きる牧師は、この世の計算では沈んでも、神の計算では浮いています。

沈むとは、お金がないのですから、つらく苦しく窮屈な時間を過ごすことです。

浮くとは、それでも生活が成り立ち、自分が考えている以上の出来事が人生で成されることです。

その先生は、この実体を生きているので、「捧げたら恵まれますよ」という言葉が人を動かしたのでしょう。

レプタ二つを捧げたやもめは、この世界を歩いていた人だったのです。

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この聖書個所で注意しなければならないことは、「全てを捧げよ」というメッセージではない、ということです。

ここを読むと、「献金は金額の大小ではない」ということは分かります。

だからと言って、

「献金に表されるあなたの心は、財布の中から出した金額で決まるのではありません。財布の中に残っている金額で決まるのです」

というのは言い過ぎです。

もしそれが通るとしたら、罪人の私は集会に出る前に財布の中身を別の場所に移し、お札の枚数を減らしてから出席することでしょう!

この聖書個所で読み取らなければならないのは、神への愛と信頼です。

その結果としてのレプタ二つなのです。

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人の人生は誰によって支えられ、養われていると思いますか?

このすべてを捧げたやもめは、神によって支えられていると深く信じていたのです。

私たちは、私たちの人生を知っておられる方の前に、どう生きるかが問われています。

自分をすべて知っておられるお方を信じ切って人生を歩んだやもめのように、あなたも人生を歩んでみませんか。

イエス・キリストは、あなたの人生を支える方として共に歩んで下さいます。

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