今日のみ言葉【No.1406】(2016年11月 8日) 042 「盲人バルテマイ」(1)

ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。
(マルコ10:47)

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マルコによる福音書第10章46節〜52節の個所には、3種類の登場人物が出てきます。

盲人バルテマイ、群衆、そしてイエス・キリストです。

まずバルテマイに焦点を当ててみます。

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盲人バルテマイが住んでいたエリコの町は、エルサレムから約20kmほど離れた町で、昔から人口が多い大きな町でした。

当然、祭司、レビ人らの宗教関係者も多くいたはずです。

気候は亜熱帯。果物の栽培が盛んで、私もイスラエル旅行の折り、おいしいフルーツをたっぷり食べた思い出があります。

さて、この箇所はユダヤの過越の祭りの一週間前の出来事です。

日本で言えば、お盆や花火大会が間近に迫る、何かと華やいでウキウキした雰囲気が漂う状況です。

しかし、バルテマイは目が見えないというハンディを抱えていましたので、それゆえの生活苦があり、物乞いをせざるを得ない状況でした。

また、どんなに周りに神に仕える祭司たちがいても、それは何の力にもならないことを痛感していました。

そのことが、彼を強烈に求める行動へと導いていきました。

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英国の有名な説教家スポルジョンは、しばしば鬱状態に陥ったそうです。

鬱になると、自分のやってきたことは失敗ばかりに思え、過去の罪や他者に対して迷惑をかけてきたという思いが心の中に膨らんで破裂しそうに感じます。

また、現在行なっている全てのことが無意味に思え、将来に楽しいことが待っているなどという思いも湧きませんし、またそう聞かされても本当のこととは思えません。

「主よ、いつまでなのですか。」
(詩篇13:1)

この嘆きの言葉だけが頭の中をグルグル巡るのが鬱状態のクリスチャンの症状です。

しかしスポルジョンは、神を信じ敬う人にはこの「嘆きの召し」があるのだと言います。

つまり、バルテマイのように、周りに神の人がいても自分から働きかけなければ何も起きないことを痛感し、人は追い詰められて嘆くように神から召されているということです。

そして、嘆きの極みで初めて神に求めるのです。

嘆きの祈りは、人をとことんまで神に向かわせます。

バルテマイは

「ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は『ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください』と叫び出した。」
(マルコ10:47)

という爆発的行動に出ました。

嘆きが内に貯められ、誰にも、自分自身でさえも止められないほどのエネルギーとなって表にほとばしり出たのです。

真剣な祈りが神から答を引き出す例は聖書に多く残されていますが、

「とてもそこまで熱心に祈り続けることなど私には無理だ。」

と言うあなたのために、神はあなたの内に嘆きを積み重ねさせておられるのかもしれません。

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安心して嘆いて良いのです。

あなたの心の内の嘆きを、神は御自身の最善のご計画の中で必ず用いて下さいます。

嘆かせていただける召しに対して、あらためて感謝し、信仰のエネルギーを蓄積して参りましょう。

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