今日のみ言葉【No.1381】(2016年10月 3日) 033 「変貌山でのペテロ、ヤコブ、ヨハネ」(3)

すると雲の中から声があった、「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」。
(ルカ9:35)

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前向き肯定的クリスチャン夫婦の奥様にガンが発見されました。

転移はないので手術をして退院という運びです。

いつも前向きで「感謝」が口癖のご主人でしたが、一瞬霊の目が曇ったようです。

「あれだけ食事に気をつけていたのに、どうしてガンになったのだろう…」

すかさずそばにいた人がこう言いました。

「あれだけ食事に気をつけていたから転移していなかった、とは考えられませんか?」

そのことが医学的に正しいかはさておき、ご主人の心には再び神への確信が宿り、心が元気になりました。

常に神様がなして下さった良い面を見る、といういつもの習慣に立ち返ったからです。

神が自分に対して語られている言葉に注目すること。

これが変貌山に登ることを許されたペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人に求められていたことでした。

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イエス様、モーセ、エリヤの3人が雲に囲まれ、その中から神の声が響き渡ってきました。

「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」
(ルカ9:35)

イエス様は受難の予告の後、この3人を選び、おびえる心に確信を与えて励ますために、変貌山で栄光の姿をお見せになったのでした。

しかも、「これに聞け」という保証まで聞いたのですから、「苦難や十字架があっても大丈夫、安心だ」と元気になって山をおりても良いはずなのです。

しかし、彼らの心は希望や平安などとは程遠い状態でした。

「弟子たちは沈黙を守って、自分たちが見たことについては、そのころだれにも話さなかった。」
(ルカ9:36)

起きて欲しくないことは、起きて欲しくないのです。

「人の子は人々の手に渡されようとしている」
(ルカ9:44)

そんなことは信じたくありません。

ですから、イエス様の受難の話題には、脳は抵抗を示し、思考を停止させ、考えないということによって平安を保とうとします。

「しかし、彼らはなんのことかわからなかった。それが彼らに隠されていて、悟ることができなかったのである。また彼らはそのことについて尋ねるのを恐れていた。」
(ルカ9:45)

「苦難を通されても十分にやっていけるよ」という神からの愛の励まし。

それら一切を無視し、考えないことで心の安定をはかる弟子たち。

神の方法でやるか、人間の方法でやるか。

そこが信仰の試されどころです。

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私も試されます。

高齢の認知症の母は、ヘルパーさんの助けで一人暮らしをしています。

心配なので、私の所にしばらく滞在してもらい、同居の可能性を探りました。

認知症の方は環境が変わると症状が進むとよく言われますが、案の定、ひどくなりました。

しょうがありません。あわてて今までの家に帰すと、勝手知ったる我が家で生き生きと生活し始めます。

「母が一番ストレスを感じない生き方とは、住み慣れた家で暮らすことか…」

これが神の御心と判断しました。

風邪をひいたら、ケガをしたら、火事になったら…。

心配は山ほど出てきますが、何も問題が起きないように母親を封じ込めることは御心ではなく、問題が起きてもそれに対処できるようにすることが御心と受け取りました。

病気やケガをした時はすぐ駆けつける態勢作りをし、私が行けない時は近くにいる人に対応してもらえるように頼みました。

火事を出したら大変ですので、警備会社の高齢者見守りサービスを契約し、火災センサー等を備えました。

今でも

「今晩、駆けつけなければならないこともあるのだなあ」

と思います。

恐れでしばらく眠れません。

しかし、その時はその時。

「これに聞け」とおっしゃる神の御心と信じてその中に飛び込んでいく時、神のお取り計らいが必ずあるのです。

そう信じ、自分に言い聞かせ、いつの間にか眠っている毎日です。

夜中にふと目を覚ます時があります。

今から電話がかかってくるのではないか、とまた心配し出します。

再び、

「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」
(ルカ9:35)

の御言葉に立ち返ります。

この繰り返しです。

神はこのように私たちを養って下さるのです。

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御言葉の約束に立ち返り、そこに信頼して今日の一歩を踏み出して参りましょう。

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