今日のみ言葉【No.1352】(2016年 8月19日) 023 「長血をわずらっている女」(3)

イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。
(マルコ5:34)

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もし、この長血の女の人がイエス様に見つけられずにそのまま家に帰ったとしたら、どうなったでしょう?

容易に想像がつきます。

まず、その晩、

「良かったー!」

と喜びにあふれて寝ることでしょう。

ところが、次の瞬間、

「あれ?」

と思って目が覚めます。

「再発したらどうしよう…」

長年病気に苦しめられた人は、健康でいることの方が「普通」ではないので、またそうなった時の場合のために、と、自動的に気が回ります。

その夜遅く、彼女はイエス様が泊まっておられるところへ忍び込み、再び後ろから御衣のすそを触ります。

今度は手にハサミを持っています。

何をするのでしょう?

そうです、持ったハサミでイエス様の御衣の裾をチョキンと切り取り、大急ぎで家に帰るのです。

そして、

「これさえあれば、もう一回病気になっても大丈夫!」

と思って、高いびきで眠ることでしょう。

以上のことはあくまでも想像ですが、人格的にイエス様と出会わず、本当は役に立たない物を役に立つ物として信じこみ、偽物の安心感で満足する姿は、私たちとどこか通ずるものがあるのではないでしょうか?

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私たちは初め、問題の解決や必要の満たしを求めて神に近づきます。

そしてその目的が達成されれば、イエス様から去って行こうとします。

しかし、イエス様にとって、癒し以上に救いが大事なのです。

そして、救いは人格的出会いを通して与えられるものです。

イエス様が癒された人を探そうとされたのは、お礼を要求するためでもなく、無断で神の力を利用したことを責めるためでもありません。

この女性と人格的関係を結ぼうとされたのです。

人格的関係とは信頼です。

そして「救い」はこの「信頼」を通してのみ与えられるからです。

長血の女は

「せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただける」
(マルコ5:28)

という必死の思いの中にイエス様に対する信頼を込めていました。

ここに一瞬でも信頼関係が成り立っていたことが分かります。

だからこそ、イエス様は自分の内から力が出て行ったことを感じられたのです。

衣のすそという物質に頼るのではなく、イエス・キリストという人格に信頼を置いて真の救いを得られるようにと、イエス様はこの女と出会おうとされているのだということを忘れてはなりません。

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さて、現実の彼女はその後どうしたでしょう?

「その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。」
(マルコ5:33)

逃げられない、逃げてはいけないと思ったのでしょう、覚悟を決めて、恐れおののきながらイエス様の前に出ました。

もし私がイエス様の立場だったら、きっとこう言うでしょう。

「あなただったの!あのねぇ、後ろから黙って…なんてことしないで、こちらの会堂司さんのように正々堂々、真正面から来なさい。」

「大体あなたね、そういう後ろ向き消極的姿勢がいけないんですよ。もっと前向き肯定的積極的に生きるように自分を変えないといけません。今度から私の言うことをちゃんと聞いてくださいよ。いいですか、12ポイントあります。1番目は…」

などと延々と説教を続けるでしょう。

これを「支配」と言います。

相手のためを、と思って、良かれと思って操作し、支配しているのです。

しかしイエス様が結ぼうとする人格的関係は全く違います。

「イエスはその女に言われた、『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい』。」

イエス様は「支配」でなく「解放」して下さる御方です。

そして、滅びる物質ではなく、永遠に続く「信仰」を与えて下さいます。

支配する人は相手を自分に縛りつけようとしますが、イエス様は人を「自立」させ、解放します。

イエス・キリストを信頼するということは、この女のようにすっかり解き放たれ、自分の方からイエス・キリストについていきたいと願う人生を送るということなのです。

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あなたを探しておられるイエス様は、あなたを解放しようとなさる御方です。

イエス様を利用するところから、信頼するところへと導かれる一日として参りましょう。

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