今日のみ言葉【No.1353】(2016年 8月20日) 024 「ふたりの盲人」(1)

「わたしにそれができると信じるか」
(マタイ9:28)

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2016年の流行語大賞の候補になりそうなのが、「神ってる」という言葉です。

プロ野球広島東洋カープの神がかり的勝ち方が、ファンの間で「神ってる」と言われるようになりました。

最近はそのように「神」という語が手軽に使われているような感じがします。

完璧なまでに行き届いた対応を「神対応」。

圧倒的に強いスポーツ選手を「神の子○○」。

果ては名人・達人の域に達した技の持ち主を「神だ!」という言葉で賞賛する方がいますが、その人なりのイメージで「神」という言葉を使っているのでしょう。

マタイによる福音書第9章27節〜31節に出てくるふたりの盲人は、「ダビデの子」という言葉で自分たちを救ってくれる人をイメージしていました。

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「ダビデの子」という言葉は、旧約から約束された救い主(メシヤ)をあらわす称号です。

救い主はダビデ王の子孫から生まれ、その王座は永遠に続くことが預言されています(サムエル記下7:12-13)。

人々はこのメシヤの出現を待ち望んでいました。

つまり、ローマ帝国を打ち破り、ユダヤ人の王国を再興する政治的武力的解放者としての王。

それが「ダビデの子」という語の持つイメージだったのです。

ふたりの盲人は「ダビデの子」という言葉を連呼しました。

「ふたりの盲人が、『ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい』と叫びながら、イエスについてきた。」
(マタイ9:27)

単純な叫びの繰り返しですから、漠然とした願いなのかと思いますが、その内には、「イエス様に頼めばこの苦痛から解放してもらえる」という強い信仰があったのです。

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この二人の求めに対して、イエス様は家に入るまで応じようとはなさいませんでした。

それは人々の誤解を招かないためです。

人前で癒しを行なったら、

「おお!やっぱりあの人はユダヤを解放して下さる王だ!」

と人々が考え、イエス様を政治的解放者として祭り上げようとすることが分かっていたからです。

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イエス様は彼らの漠然とした願いに対して、奇妙な質問をなさいました。

「わたしにそれができると信じるか」
(マタイ9:28)

イエス様は彼らの心の中の願いを知り、「それ」を二人に明確に覚えさせました。

その後すぐ、目が開かれたことから、その願いとイエス様に対する信仰は「目が開かれること」であったことがわかります。

彼らの心の中にあった願いはそれ一つだけだったのです。

ですから、

「わたしにそれができると信じるか」
(マタイ9:28)

と問われた時、

「それ、とは何だろう?」

とか

「それって、どれ?」

などと迷うことはありません。

「それ」と言えば1つしかありません。

目が開かれること、それだけです。

イエス・キリストは二人の盲人と出会い、彼らが漠然としか思っていない、しかし、強烈なたった一つの願いをはっきりと意識させて下さり、そうなると信じる信仰へと一瞬のうちに成長させて下さったのです。

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さて、私たちがもし、今日、イエス様から、

「わたしにそれができると信じるか」
(マタイ9:28)

と言われたなら、どう反応なさいますか?

あなたの「それ」とは何でしょうか?

しっかりと1つに集中していきたいものです。

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イエス・キリストはあなたと出会い、

「わたしにそれができると信じるか」
(マタイ9:28)

と質問される御方です。

あなたの本当の願いとは何かを思い巡らす一日として参りましょう。

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