今日のみ言葉【No.1320】(2016年 7月 4日) 013 「右手のなえた人」(1)

また、ほかの安息日に会堂にはいって教えておられたところ、そこに右手のなえた人がいた。
(ルカ6:6)

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マタイによる福音書では「片手のなえた人」と記されていますが、医者ルカはそれが右手であることを正確に記しています。

聖書で「右」と言えば力や権威を象徴する言葉ですから、「右手」はその人の能力の源を表します。

自由自在に動かすことができ、物を作ったり持ち上げたり、何でもでき、家族を養う力となっていた右手が、どのような理由かはわかりませんが、動かなくなってしまったのです。

自分をも他者をも支えるものが失われてしまった…。

右手がなえた人とは、ただ単に右手が動かなくなった機能障害の人という意味ではなく、プライドも自信もなくしてしまった、無力感にとらわれている人だったのです。

そのことを思いめぐらすときに、この人が会堂の真ん中ではなく、端のほうにいたことが容易にうかがえます。

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イエス・キリストから声をかけられる人とはこのような人です。

やれると思っていたのにやれなかった。大丈夫と思っていたのに大丈夫でなかった。「これから私の人生、どうしたらいいんだろうか」と力不足を感じて引っ込んでいる人。

そのような人こそイエス様に出会えるのです。

なぜなら、右手が動いているうちは、彼はイエス様と出会えなかったからです。

右手が萎えてしまうという致命的に見える出来事が、イエス・キリストと出会う接点となりました。

何もかも失ったように見える時こそ、目の前にいるイエス様があなたに呼びかける時なのです。

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T兄は仕事最優先の社長さんで、目覚ましい業績をあげていました。

しかし、娘さんが不登校になった時、ビジネスで力を発揮した手法の全てが通用しないことを体験しました。

「社員」と「家族」では関係が違うのです。

さて、娘さんの不登校をきっかけとして奥様は洗礼を受けられ、ご主人のT兄も教会と渋々ながら関わりを持つこととなりました。

そして、教会主催の旅行に家族全員で参加することにし、ここで娘さんと接する時間を多く持とうと考えました。

旅行中、スケジュール通りに動かない娘さんに対し、「これこそ望んでいた娘と関わるチャンス」と前向きに考えながらチャレンジするのですが、振り回されるばかりです。

自分の力不足を思い知らされることばかり!

しかし、そこは企業戦士の社長さんですから、表面上、弱さは見せられません。

何でもないふりをしているので、ますます娘さんは逆上し、お父さんの愛を確かめようとして試しだす…、というパターンの繰り返しです。

神様はT兄に愛のプレゼントを備えていて下さいました。

それは一緒に旅行をしていた教会の方々との交わりのひとときでした。

弱さを出し合っても決して裁かないという家族的な雰囲気に、彼はいつの間にか心地よさを感じていました。

その時T兄は、「これなら自分でもついていけそうだ」と思ったそうです。

弱さを認めても良いのだというキリストの愛に溶かされた瞬間でした。

T兄はその年のクリスマスシーズン、ちょうど奥様の誕生日に洗礼を受けられ、クリスチャンとなられ、人生の方向を大きく転換していかれました。

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力が無くなった時こそイエス様と出会えるチャンスの時です。

天来の力でもって歩む今日として参りましょう。

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