今日のみ言葉【No.1280】(2016年 5月 9日)

主は言われる、「わたしはあなたがたを愛した」と。ところがあなたがたは言う、「あなたはどんなふうに、われわれを愛されたか」。
(マラキ1:2)

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預言者マラキの時代、イスラエルの民は神に愛されているという実感がありませんでした。

先の預言者ハガイやゼカリヤの言う通り、心血を注いで神殿を建てましたが、現実は何も変わりありません。

天から祝福が降ってくるどころか、依然、ペルシャの支配は続きます。

「神の言うことを聞いて一生懸命やって来たが、こんなもんだ。何も変わらない…。」

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こうなると、神への愛を示す礼拝もおろそかになっていきます。

一応、形の上では体裁を保とうとしますが、中身の心がついていきません。

犠牲として捧げる動物は完全なものでなければならないのに、どうせ焼かれるのだから、と、

「盲目の獣」「足のなえたもの」「病めるもの」

を供え物として差し出すことが慢性的になっていました。

愛されている実感がなければ、預言者を通して語る神の

「わたしはあなたがたを愛した」

という言葉は、民の心に空しく響き、

「あなたはどんなふうに、われわれを愛されたか」

という痛烈な反論となって現れてきます。

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これに対してマラキは、神の愛は「選びの愛」であることを根気強く民に教えます。

「しかしわたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」
(マラキ1:2-3)

エサウの子孫のエドム人がどんなに自分たちの町を再建しようとしても、それはうまく行きません。

なぜなら

「しかしわたしはそれを倒す」
(マラキ1:4)

とまで神は言われるように、ヤコブの子孫であるイスラエルの民を選んでいるのです。

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私たちが愛として感ぜられる愛は、心地よさです。

赤ちゃんはお腹が空けば泣きます。するとお母さんがミルクを飲ませてくれます。

不快が解消し、心地よさを味わいます。

おむつが濡れれば嫌な感じになります。赤ちゃんは泣きます。するとお母さんがおむつを替えてくれます。

不快が解消し、心地よさを味わいます。

…、…、…、

私たちが人生の初期で認識する愛は、この「不快から快」への転換です。

しかし成長した後は、心地よさを味わわせてもらうことだけが愛されている証拠なのではないということを知ります。

選ばれ、責任を課せられ、それを果たして成長するように願っている人との出会いを通して、選びの愛というものを知ります。

私たちはどこかで心地よさの追求を捨て、この選びの愛に視点を移す必要があるのです。

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「私は愛されている」と気づく転換点の一日となりますように…。

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