今日のみ言葉【No.1236】(2016年 2月26日)

ふたりの者がもし約束しなかったなら、一緒に歩くだろうか。
(アモス3:3)

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今日の聖句は反語形式で書かれているところです。

「ふたりの者がもし約束しなかったなら、一緒に歩くだろうか」

「いや、そんなことはあるまい。約束していなかったら一緒に歩くはずがない。約束しているから一緒に歩くのだ」

という意味を強調する表現形式です。

つまり、神がイスラエルと共に歩かれるのは、契約があるが故であり、一方、イスラエルも神と共に歩むことが契約のゆえに求められたのです。

預言者アモスは、神がその契約を誠実に守られたのに、イスラエル、つまり人間側では約束に忠実な歩みをしたとは言えず、むしろその反対の不正な生き方をしている、と指摘しました。

ですから、アモス書の大半は厳しい裁きの言葉となっています。

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神はあなたと共に歩かれます。

あなたを選んだからです。

では、選ばれた私たちは自分勝手な歩みをしてよいのでしょうか?

当然その答えは「ノー」です。

神が私たちと共に歩まれるというのは、私たち側も神と共に歩むことが求められるのです。

ただし、それはいつも完璧に生きることではありません。

人間は不完全ですから、罪を犯し、失敗もし、神の御心を共有するどころか、自分の思いを成し遂げることを貫き通したいとまで思うものです。

しかしそのたびに、神に立ち返り、神のご計画は何であったかと方向を再確認し、神が見ておられるビジョンとは何かと焦点を再び合わせることが肝心なのです。

日々の悔い改めのし直し、毎回の信頼の確認。

それがクリスチャン生活の日常なのではないでしょうか?

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数年間のひきこもり生活を経て、今はコンビニで働いているM兄がおられます。

世の中の価値観にさらされ、ふと、

「この私ではダメなのではないだろうか」

と思い、力を失いそうになる時があります。

その時、彼が立ち返るのは、神に選ばれ、神によって生かされている自分、という原点です。

この世の価値観や人の要求につぶされそうになる時、彼は自分の心を探し出します。

そして自分の命の部分に耳を澄ますのです。

内なる自分は本当は何と言っているのか。

外の声がガアガア騒がしく自分を駆り立てようとする時、彼はじっと内なる自分の声に耳を澄まします。

これをM兄は

「命の主張を受け入れる」

作業だとおっしゃいます。

まさにそこを通った人でなければ語れない「いのち言葉」です。

神が共に歩まれるのは、その本当の自分とです。

そこから再び神と歩調を合わせ直して、M兄は立って歩んでいかれるのです。

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神と共なる歩みのために、一日のスタートの時、そして気づかされた時はいつでも御心に焦点を合わせる一日として参りましょう。

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