今日のみ言葉【No.1176】(2015年11月17日)

わたしはひらめくつるぎを彼らに送る。
(エゼキエル21:15)

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私の両親の金婚式の年、我ら兄弟たちは国内旅行のプレゼントをしました。

ホテルオークラ神戸に宿を取ったのですが、朝食で

「死ぬほどうまい」

と評判のフレンチトーストが食べられます。

もちろん両親は生きて帰って来ましたが(笑)、そのような極端な表現でしか表せない圧倒的な美味しさなのだそうです。

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神の無限に大きい恵みを人間の限られた言葉で表現するために、極端な表現をとっている個所が聖書の至る所に見られます。

たとえば、

「東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。」
(詩篇103:12)

です。

東と西が一致するはずはありません。東と西は永遠に離れたままです。

そのように

「主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。」

という強調です。

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このように、聖書を読む際には、片一方の極端を受け入れることで、もう一方の極端が成り立つのだということを知らなければなりません。

有名なローマ人への手紙第3章23節では、

「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、」

とあります。

私が初めて教会で聖書を学んだ時、この個所にかなりの反感を感じたことを覚えています。

「そ〜かよ〜?いきなり全人類って言い切れるの?極端じゃない?」

しかしこの23節を受け入れることで、次の24節の神の無尽蔵の恵みが成り立つのです。

「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」

他にも例えば、

「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。」
(第1コリント15:22)

という個所では、アダムが罪を犯したので、自分も含めたそれ以降に続く全人類が死に定められた、と一旦認めてしまうことが要求されています。

「そんな、まさか。アダムと私は別人です。私はエデンの園にいません。」

と思ったとしても、

「人類の代表アダム一人のせいで全人類は真っ黒になった」

という論理を受け入れると、次の

「キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」

という宣言により、

「人類の代表キリスト一人のせいで全人類は真っ白になった」

ということになるのです。

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だいぶ前置きが長くなりましたが、今日の聖句を読みこなすためには、私自身にも必要なことでした。

「わたしはひらめくつるぎを彼らに送る。」
(エゼキエル21:15)

今日の聖書個所であるエゼキエル書第21章は、殺戮の描写を繰り返しています。

「神は我らを守られる」

ではなく、

「神は我らを滅ぼされる」

です。そのための「ひらめくつるぎ」なのです。

私たちは、神が自分たちを滅ぼす力を持っておられることを知らなければなりません。

「また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」
(マタイ10:28 )

これは言葉だけの脅しではありません。本当に神は実行される御方なのです。

神は契約をその通りに果たされます。

ですから、取り返しのつかない滅びを受け入れることによって、もう一方の無条件のゆるしの中に私たちは入れられるのです。

神の「ひらめくつるぎ」を否定してはなりません。

それはあるのです。

一旦そのつるぎを受け入れ、しかし、そのつるぎを身代わりに受けてくださった方がいる、という神の救いのメッセージを受け入れることが人間側の重要なポイントです。

その者には、滅びと同様の確かさで永遠の命が約束されるからです。

「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」
(ヨハネ1:12)

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子供の頃にいじめられた心の傷が、今でもうずいてどうしようもない、という方からのご相談を受けました。

その方は心の痛みを何とか薄めようとして、

「私もきっと他の人に同じようなことをしているんですよね」

「うまいこと勘定が合うようになっているんですよね」

と必死で思い込もうとしておられました。

私は彼女に、

「いや、それとこれとは別です。いじめを受けたあなたは何も悪くありません」

と申し上げました。

自分が誰かの加害者になった分、被害者になっているとする考え方は、相対的であり、どこかでそのバランスが崩れれば、また痛みが戻ってくるからです。

神があなたに示すやり方は、自分の罪は自分の罪としてはっきりと認め、神の御前で告白し、キリストの十字架によって一切はゆるされた、と信じて解放される方法です。

神に裁かれる自分であることを認め、しかしその御前で真っ白な無罪の自分にさせていただいたからこそ、

「確かに自分にもいじめを誘発させる何かがあったのかもしれない。しかし、あの時、私がいじめを受けたことは不当なことだったのだ。」

と堂々と言うことができるのです。

短い時間でしたが、その方の心が安定し、何よりも自己の尊厳を取り戻された様子が分かりました。

その後、彼女は自分をいじめた相手が成人し、今は家族を持っていることを話し出されました。

その口調は淡々としており、どこにも憎悪の感情は感じられませんでした。

無意識に、自分をいじめた相手を受け入れ始められたのです。

罪のゆるしの確信は、過去の傷を受け入れやすくしてくれます。

彼女の心の傷の癒しの旅は始まったばかりですが、旅を続けるごとに、持っている重荷はどんどんと軽くなっていくことでしょう。

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滅びと救いとの両方の権威を持っておられる神の力を認め、十字架の福音に寄り頼む一日として参りましょう。

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